【俺のWBC#5=石原慶幸氏】2009年の第2回WBCに出場した石原慶幸氏(捕手=当時広島)には、試合の記憶が他の選手に比べ、圧倒的に少ない。理由は「ほとんど見られていない」ためだ。試合出場の準備とは別に、送り出す側であるサポート役にほぼすべての労力を捧げ、舞台裏での緊張感と常に向きあっていた。
選考合宿を経て、プロでは初の代表入り。「選んでもらったからには必死にやる」と、決意した第1ラウンド開幕前、原監督から声をかけられた。
「『普段のチームでやっている感じではないことのほうが多くなるけど、やってくれるか? 力を貸してくれるか?』と。もちろん意味も理解して。『頑張ります』とだけ、伝えさせてもらった」
各ポジションにメジャーリーガーが顔を揃えていた。投手に松坂、捕手に城島、内野に岩村、外野にはイチローと福留…。他の国内組も「みんなすごい成績で、リーグトップレベル。じゃあ俺は? って考えたら別にそこまでじゃない」。捕手には城島のほか北京五輪代表の阿部(巨人)もいた。大事がない限り、出場機会のない第3捕手として〝黒子〟に徹することに、ためらいはなかった。
試合中は中継ぎ投手が待機するブルペンが定位置。米国でのラウンド以降は、ベンチと別場所となり球場の構造上、グラウンドに背を向ける時間も長くなり、自分が試合に絡む機会はさらに減った。一方で「すごい雰囲気だった。所属チームではエースや抑えで選ばれた選手が『もう、どこでも行きます!』って」と、国際大会ならではの緊張感に触れる機会は、日に日に増していったという。
「とくに韓国に2度負けてからはね。年齢関係なしに、本当にみんな『どこでも』『いつでも』『何でも』やるみたいに。誰かが…じゃなくもう、みんなが必死な感じ。あの空気感は経験した人にしか分からない」
その第2ラウンドの韓国戦では〝まさか〟の出来事もあった。7回に城島が判定への態度を問題視され、退場処分に。ブルペンにいた石原に8回から交代出場の指令が下った。
「中継ぎの球を受けていたら、電話が鳴って『行くよ』って。最初『え? どこに?』って思ったけど『試合、入る』って言われてから、あまりに急で緊張してる暇もなかった」
3月5日の初戦から23日の決勝・韓国戦まで出場はこの1度。打席には立つことなく、最初で最後のWBCは3イニングにも満たない極めて短い時間だった。ただ、本人はこのWBCを「現役生活のなかでも、本当に得がたい経験で自分の財産」と語る。
理由のひとつは、初めて美酒に酔えたこと。当時の広島は11年連続Bクラスと低迷期。決勝後に行われたシャンパンファイトは「ビールかけもしたことないし、初めての経験。こんなにうれしいものだとは思わなかった」と、ただただ感動した。
さらにプレーヤーとしても、それまで大事にしてきた野球観が間違っていなかったことを再認識する機会にもなった。
それはどんなチームでも、自己犠牲をいとわない選手が多ければ多いほど、チームは試合を進めていくなかで、有形無形の上積みを期待できる集団になれること。前年の北京五輪で正遊撃手だった川崎は、この大会は控えに回った。それでも「ベンチで誰よりもめちゃくちゃ元気で、声出して盛り上げて。WBCに行く前から新井さんや黒田さんとか、カープの先輩方からもそういうものを教わってきた。実際、ジャパンでもみんながそうだった」。ひとたびゲームに入れば個人ではなく組織が最優先。代表にはそれを行動に表すことのできる面々ばかりだった。
「代表はヨソのチーム同士の集まりで、所属チームとでは意味合いは多少、違うかもしれない。でも今思えば、やっぱり勝つときって、チームが勝つために自分が何をしなくちゃいけないのかを個々が、しっかりと考えられている。そういうときは、結果もいい方向にいくことが多いよね」
全員で戦い、そして勝った。個人ではわずかな出場時間でも「このチームの一員として、同じユニホームを着て戦えたことに感謝の思いが尽きない」とし、今も自宅に大切に飾ってあるモノがあることを明かした。
チームが解散する直前、正捕手だった城島から贈られた投手陣全員のサインが入ったバットだ。
「城さんから『ありがとう』って。阿部さんと俺に。ずっと試合に出てたから『いつ、書いてもらってたの?』と思って、ビックリしたけど。すごくうれしかったよね」
一発勝負で勝つために選手の誰もが最低限、共有していなければならないものは何か――。全員が同じ方向を向いて戦う重要性を改めて学んだ〝世界一体験〟だった。













