【俺のWBC#6=馬原孝浩氏】 第1回、第2回のWBCで2度世界一の歓喜を味わった一人が、現在は熊本の独立リーグ・火の国サラマンダーズで指揮を執る馬原孝浩監督(41=当時ソフトバンク)だ。第2回大会では抑え候補にも挙げられ、チーム最多タイの5試合に登板した。その裏では国際球の適応に苦しみ絶体絶命にまで追い詰められていた。

 2006年の第1回大会は突然の追加招集だった。石井弘寿(ヤクルト)の負傷により急きょ声がかかった。できる限りの準備はしながらも、現実的には出番がないことが確実な状況。

「準決勝から合流して、正直投げることはまずないという雰囲気でした。自分も出始めのころで、短い期間でも、超一流どころのルーティンや取り組む姿勢を見て学びたいなと思って臨みました。あの雰囲気を味わえたのは最高でした」

 その歓喜から3年――。09年の第2回大会はブルペンの柱の一人として満を持して呼ばれた。藤川球児(阪神)とともにストッパー候補に挙げられ、最終的にはチーム最多タイの5試合に登板。いずれも終盤の7回、8回を任されて、侍ジャパンの世界一に貢献した。

 ただ、その一方で「感覚的には1試合もいい時がなかった。自分との戦いになっていた。最後は〝フォークイップス〟のようになっていた」と振り返る。原因はボールの違いだった。

「自分はフォーク、スプリットが生命線の投手。ボールを握った時にツルツルで。チェンジアップ、ツーシームの投手はまだ良かったと思いますが、すごく苦労しました」

 勝ち進みアメリカでの試合になると、さらにボールの感触が変化した。

「全然違いました。乾燥していて、日本でも滑るのに、さらにツルツルに感じて。どこに行くか分からないし、カンで投げているような感覚です。スライダーも抜けるので『もう無理だ。真っすぐしか投げられない』と思ったのを覚えています」

 とにかくボールにアジャストすることに取り組み、明確な答えが出ないまま四苦八苦した。それでも経験豊富なリリーフ投手として4試合目の登板までは無失点。しかし、準決勝のアメリカ戦で絶体絶命のピンチが訪れる。

アメリカ戦の6回に左前打を打つ城島健司
アメリカ戦の6回に左前打を打つ城島健司

 

「あの時は感覚がめちゃくちゃになっていた。『やっぱり来たか』と。コーチがマウンドに来て話をされていた時も正直頭に入ってこなかった。『どうしよう、どうしよう』みたいな。フォークボールさえ感覚が良ければ…』というのはありました。真っすぐ1本でアメリカの打者は抑えられないですし」

 マウンドに上がったのは4点リードの8回の場面だった。一死から同年にリーグ最多安打に輝くブラウンに抜けたフォークを打たれて二塁打を浴びると、続くマッキャンに四球。ヒートアップしたドジャー・スタジアムに地鳴りのような「USAコール」が響きわたり始めた。ここで今回の第5回大会でアメリカ代表を率いるデローサに三塁線を破られて2点差に詰め寄られた。

 守備のミスもあり、なおも一死三塁。球場のボルテージは最高潮に高まっていた。しかし、ここで踏みとどまる。世界と戦う中でチーム全体にとって大きかったと実感しているが、米球界のスターでもあるイチロー(マリナーズ)の存在だった。

アメリカ戦の8回にタイムリーヒットを打つイチロー
アメリカ戦の8回にタイムリーヒットを打つイチロー

「アメリカの選手だったりとは体格差もあったが、精神的に同じ目線でいられた」

 そしてもう一人が扇の要である城島健司(マリナーズ)だ。馬原にとっては自チームでバッテリーを組んでいた間柄でもある。

「自分の内角を突きたがるところだけは理解してもらい、あとは任せようと思ってました。ハキハキとハッキリものごとを言ってくれる。リードしてもらいやすかったし、頼りがいがありました」

 開き直るしかない場面。信頼する先輩捕手のリードに応じて腕を振った。

「当然、怖さもありましたが、自分を信じるしかない。とにかく意地です」

 代打で登場したロンゴリアに追い込んでからのフォークを1球見逃されながらも、続けて渾身のフォークを投じて空振り三振。さらに1番のロバーツをフォークで投ゴロに打ち取り追加点を許さなかった。捕手・城島とグータッチを交わした。

 大会を通じて苦しみ、絶体絶命に追い詰められながらも連覇に貢献した。特に米国でチームとして戦った6試合の記憶が色濃く残っているという。試合日の食事メニューとして普段食べていた麺類がなく、仕方なくステーキで腹ごなしをしてみたところ、体に重さを感じながらブルペンに入ることになってしまったことも今ではいい思い出だ。

「投手ゴロのシーンとか、三振のシーンとか。一生、覚えていると思う。そのくらい重圧のある特別なものだったと思います」と笑顔を浮かべた。