【俺のWBC#11=北九州下関フェニックス・西岡剛監督】第1回WBCに弱冠21歳で出場して日本代表の世界一に貢献したのが、独立リーグ・北九州下関フェニックスの西岡剛監督(38)だ。全試合に「2番・二塁」でスタメン出場。度胸抜群のプレーで勝負強さを発揮した。米国戦では〝アナハイムの悲劇〟と称された世紀の誤審に巻き込まれる一幕もあった。今回の大会は国内組が若手中心となる中で「楽しくてしょうがなかった」と口にする当時の心境を聞いた。
最年少での出場だった。前年2005年に盗塁王に輝きブレーク。当時の年齢は21歳だった。
「前年度にロッテが日本一になっていて、8人が選ばれました。僕もまだ主力で出られるような選手ではなかったけど、出られない選手もいた中で出させてもらった。タイミング的にすごく運が良かったと思います」
全8試合に「2番・二塁」で出場して打率3割5分5厘、2本塁打、8打点、5盗塁と大活躍。大舞台で勝負強さを発揮した。1次ラウンドの初戦・中国戦(東京ドーム)では、まさかの同点に追いつかれた直後の5回にチーム1号となる3ランを放ち、重い空気を一掃した。
2次ラウンドの韓国戦(エンゼル・スタジアム)ではチームは敗れたものの、9回に先頭打者として1点差に詰め寄る一発を放ち、気を吐いた。決勝のキューバ戦では1点差に迫られていた9回にセーフティーバントを決めるなど、いずれも1イニング4得点につながる2本の内野安打を放った。
どのような心境でプレーしていたのか。当然ながら周囲には「しょうもない試合をしたら日本に帰れない」などと重圧を感じていた選手もいた。その中で「試合に出ることが楽しかった」と振り返る。
「21歳で怖さがなかったんですよ。まだ世間知らずというか、野球のレベル的にもまだまだ未熟でした。僕も今のこの年齢であの場所にいたら、怖さを感じながら野球していると思いますけど」
2次ラウンドの米国戦(エンゼル・スタジアム)では、今でも語り継がれる世紀の誤審に巻き込まれた。同点の8回一死満塁から岩村(ヤクルト)が放ったレフトへの当たりに三塁走者だった西岡はタッチアップで生還。離塁が早かったとする米国側の抗議にも、近くで見ていた二塁塁審がセーフと判定して勝ち越したかに思われたが…。なんとボブ・デービッドソン球審が判定を覆してアウトにしたのだ。
米国内からも批判的な報道が噴出したほどで、現在のリクエスト制度があれば、当然セーフだっただろう。王監督も感情をむき出しにして抗議した。ただ、西岡は落胆した表情を見せることもなく冷静に直後の守備に向かっている。当事者としてどう思っていたのか。
「もちろん(100%セーフという強い思いが)あったんですけど、それ以上に王監督の姿を見て、僕たちは静観して任せようと。(守備に行く際も)王監督が『切り替えていくぞ』という言葉をみんなに投げてくれたと思うんです。僕の感情の代わりに王監督があそこまで表現してくれたのは感謝していて、この監督を胴上げしたいとより一層思いましたね」
勝てたはずの米国戦は誤審に泣かされサヨナラ負け。2次ラウンドの日本代表は1勝2敗で決勝ラウンド進出は絶望的となっていた。事実上の終戦を迎えていたメキシコが、条件付きで格上のアメリカに勝たなければならなかった。その奇跡が起きた。
中には宿舎でテレビ観戦をしていた選手もいた。もっとも、ただでさえアウェーの米国で、休日に息抜きをしなければストレスがたまってしまう。当時、オンオフの切り替えを大事にしたかった西岡は、親しかった川崎(ソフトバンク)と買い物に行き、リフレッシュにあてていたという。
「また試合ができる、ラッキーという感じでした。それが右も左も分からない強みで、楽しくてしょうがなかったですから。宗さん(=川崎宗則)は僕の3つ上で、僕よりプロ野球選手としての経験を積んでいて、決勝ではすごくプレッシャーを感じていました。宗さんすごく緊張してるんだなって、僕がビンタとかをしたのを覚えてます。世界一になった瞬間は…。喜びというより、やりきったという感覚が大きかったですね」
準決勝からは米国での一発勝負。当然ながら、決して戦力通りに世界一が決まるわけではない。今回の大会で侍ジャパンの国内組は若手中心で編成されている。当時の西岡のように若手選手がムードに飲まれることなく、チームに勢いを与えれば、頂点にも大きく近づくはずだ。
「ダルビッシュ投手も話してましたが、そこまで気負う必要はない。野球の祭典ですから。例えばですけど、外野フライの難しいプレーにチャレンジできるのが若い選手。失敗してフォーカスされてメンタルに来る時もあるが、それ以上に得るものはあると思う。今回の若い選手たちには、トライするプレーをしてほしいです」
現在、独立リーグの監督として若手を導く立場でもある西岡はこうエールを送った。















