【俺のWBC#9=ロッテ・栗原健太コーチ】過去4度のWBCで大会前に「選考外」となるも、再び招集された男がいる。2009年、第2回WBC日本代表の広島・栗原健太(41=現ロッテ二軍打撃コーチ)だ。一度は選考合宿で落選も最終盤の米国ラウンドで、再招集。そのまま侍ジャパン2連覇の歓喜の輪に加わった。まったく予想していなかった〝代表生還劇〟を本人が振り返った。
最後には連覇を飾ったWBCメンバーに加わったが、栗原は一度、代表から外れている。それも約1か月という決して短くない期間で、だ。
選手選考も兼ねて行った宮崎での代表選考合宿。代表の指揮を執った原監督から「今回は外れる」と直々に通達された。2月22日の最終日の出来事。そんな無念も栗原はすぐに気持ちを切りかえた。
「もちろん悔しい。でも、それなら今度はシーズンに向けてのキャンプ。そこに向けてやろうと」
合宿中、毎日続けた居残り特打を済ませてから広島のキャンプ地・日南に戻ろうと室内練習場でバットを振っていると、これを見た原監督から「野球人として見習うべき姿」と絶賛された。
それから約1か月後の3月20日。突然、栗原に再び日の丸を背負う機会がやってきた。第2ラウンドの韓国戦で村田修一(横浜)が右足を負傷。代替選手として急きょ、代表に再招集される運びとなったのだ。
その日、栗原はオープン戦出場のため高松にいた。移動休日だった前日夜はキューバ戦、翌朝の球場へ向かうバスでも韓国戦をテレビで見て、完全に第三者の立場から激戦をながめていたが、球場入り後に一変した。
「練習でノック受けていたらマネジャーから呼ばれて。『お前、今から米国行け!』って。『は? どういうことですか?』って。最初聞いた時は何を言っているのか、分からなかった」
慌てて広島へと戻り、代表のユニホームを取りに帰り、翌日、東京からロスへと渡米。すでに村田の代役として「栗原」の名前は公になっていた。ドタバタ移動の機内で本音では、複雑だったという。
理由は、約1か月の代表戦士としてのブランク。「温度差があるでしょ? 自分はここまでジャパンで戦っていない。1か月ぐらい離れている。環境も時差もあり、使うボールも違う。適応しなければならないことがありすぎた」。連日、激闘を繰り広げていたチームに「自分がスッと自然に入っていけるか?」というのが不安だった。
現地到着後、空港から直接グラウンドへ向かい準決勝前日、米国時間21日のチーム練習に合流。「おおッ! 来たか!」と原監督からの激励を受け、グラウンドへと飛び出すと、選手たちが輪を作って待っていた。再合流のあいさつを済ませ、拍手で出迎えられると、その夜には、合流時の〝心配事〟も瞬時に解消した。
野手陣が集まり、残り2試合の壮行会と栗原の再合流の歓迎会を兼ね「焼き肉を食べながら。みんなと話をして。あれで気持ちも『よしっ! やってやる』ってなったね。ひとりで夜ご飯食べるよりも、間違いなくよかったよね」。
侍に復帰した栗原は、米国時間22日の準決勝・米国戦に代打出場を果たすと、続く23日の決勝・韓国戦は「7番・指名打者」でスタメンに抜擢された。「まさか…ですよ。うれしかったですね」。だが、ファイナルの舞台は甘くはなかった。
2回の第1打席は三振に終わると、続く3回は1点先制後の一死満塁。試合の流れを左右する場面で打席に回ってきた。「あそこまでの選手だったね、俺は(笑い)…日本で試合してたとはいえ、球の質が違いました」。結果は最悪の併殺打。続く打席は代打を送られ、栗原のWBCは2試合で3打数無安打、2三振のホロ苦い結果に終わった。
栗原はこの時の経験をこう振り返る。
「バタバタでしたけど、なかなかできない経験をさせてもらいました。シーズン中は調子が悪くても、チームが負けても『明日…』ってなるけど、これはもう負けたら終わり。サッカーのW杯じゃないけど、現役中に少しでもこういう、経験できたのはよかった。プロ野球生活で唯一の『優勝』もコレ。わざわざ呼んでくれた原監督には、今でも頭が上がりません」
野球人生、最後まで何が起きるか分からない。
今年からロッテの二軍打撃コーチで、再び指導者の道を歩み始めた。自らの体験をもとに、心も技術も〝あきらめの悪い〟執着心のある打者を育てたいと思っている。














