【俺のWBC#12=巨人・中島宏之内野手】2009年第2回WBCで不振に陥った「1番・右翼」のイチロー(マリナーズ)を「2番・遊撃」で支えたのが巨人・中島宏之内野手(40=西武)だった。チーム最年少野手として26歳で挑んだひのき舞台を「とにかくガムシャラでした」と振り返る。指揮官からの言葉、間近で見たレジェンドの姿、WBCから始まった国際交流など当時のエピソードを明かす。

 08年北京五輪でメダルなしの4位と涙を飲んだ中島は帰国後、西武不動の3番としてチームをリーグ優勝、日本一へと導き、うっぷんを晴らした。その日本シリーズで対戦した巨人・原監督がWBC日本代表監督として中島を選出。1番・イチロー、2番・中島、3番・青木(ヤクルト)、4番・稲葉(日本ハム)の打線が組まれた。

「原監督には『打順は2番だけど今まで通り、そのままでやったらいい。サインが出た時だけ(バント、エンドラン、進塁打など)小技をやってくれ』と言われました。きちんと説明を受けて2番で出させてもらっていたので、大会中も迷うことはなかったです」

 指揮官の言葉で一気に肩の力が抜けた。大会に入るとぐんぐん調子を上げ、準決勝の米国戦(ドジャースタジアム)では2二塁打2打点の活躍でチームを決勝に導いた。

 さらに同大会5度目の対戦となった決勝の韓国戦(同)でも中島は7回に適時打をマークするなど2安打2四死球で4度も塁上をにぎわせて1打点。大一番で6打数4安打と大爆発したイチローによる延長10回表の勝ち越し2点中前打はネクストバッターズサークルから見届けた。

 大会中にはイチローのある行動が中島の度肝を抜いたという。

「イチローさんは球場に着くと選手ロッカーの床にタオルを敷いて、スペースもほとんどない中、汗だくになってずっとストレッチをやっていました。それまで自分はそんなことをしている選手を見たことがなかったので本当に衝撃的でした。それでグラウンドに出たらすぐに全力疾走する。ただただ本当にすごいな、と。大会前の宮崎キャンプの時からイチローさんの準備に費やす時間の使い方はすごかった」

 片岡易之(現保幸、西武)、亀井善行(巨人)ら同年代の選手はいたものの、野手最年少でスタメンに名前を連ねるプレッシャーは想像を超えていたという。

「とにかくガムシャラに必死にやってました。試合に出してもらった時には全打席、打つ気で行った。野手でもメジャーからたくさんの選手が来ていたし、その中で出させてもらったのでやりがいもあった」 

 イチローを筆頭に城島健司(マリナーズ)、岩村明憲(レイズ)、福留孝介(カブス)らメジャー勢とのプレーに喜びを感じる日々。その結果、7試合で22打数8安打、4二塁打、打率3割6分4厘、6打点と「攻撃的2番」として世界一に到達した。

「自分の結果ではなく、チームが勝つことが目標、目的なので。攻撃では打てればいいし、守備ではどんな形でもアウトを取れればいいと思って。大会が終わったら結果的に成績も良かったという感じ。ただ大きい大会で実際にプレーできたことは自信になった」

 イチローらメジャー勢の意識の高さと、本場のスタジアムの風景は、その後の野球人生に大きな影響を与えた。

「球場とか日本と全然違うし、球場に入ってからの風景や見え方も違う。雰囲気も違って、とにかくいいなと思った」

 12年オフに海外FAを行使してアスレチックスと2年契約。不運なケガに泣かされ思うような活躍はできなかったが、その原動力となったのがWBCだった。

 国際大会での経験は交流の広がりにもつながった。キューバでは06年WBCで活躍した多村仁志氏に次いで、中島も高い知名度を誇る。

 キッカケはちょっとした親切だった。同大会2次ラウンド(ペトコパーク)キューバ戦で中島は相手選手から声をかけられた。それが14年にDeNAでプレーし、21年にアストロズでア・リーグ首位打者に輝くユリエスキ・グリエルだった。

「グリエルに急に『バットちょうだい』と言われて『いいよ』って。そこから交流が始まった。それが縁で大会後にキューバにバット、グローブなど野球道具を送った。スパイクが欲しいと言われて送ったり。グリエルらキューバ勢とはそういう野球人としてのつながりができた」

 そのグリエルは14年6月8日、日本デビュー戦となった楽天戦(横浜)でコゲ茶色の「ナカジバット」を使用。3安打デビューを飾っている。

 中島は今春の巨人沖縄キャンプ中、3月2日の紅白戦で右手に死球を受け右母指末節骨骨折と診断された。41歳シーズンへ向け大きな逆境となってしまったが、きっと乗り越えてくれるはずだ。