故ジャイアント馬場さんと、故アントニオ猪木さんの「夢のBI砲復活タオル」が1月に発売されて好評を呼んでいる。
BI砲の象徴といえば日本プロレス時代に長く保持したインターナショナルタッグ王座だった。BI砲は1967年5月12日岐阜で初結成(対ワルドー・フォン・エリック、マイク・デビアス組)。同年10月31日大阪でターザン・タイラー、ビル・ワット組の王座にBI砲として初挑戦。王座奪取を果たして、以降通算4回の戴冠と通算29回の防衛を果たした。
特に4度目の戴冠では14回の同王座史上最多防衛記録を樹立。昨年10月26日付本紙の同欄では初戴冠の詳細を伝えたが、今回はBI砲「最後の王座防衛」について触れたい。
V14戦は71年7月1日大阪でダッチ・サベージ、イワン・コロフ組を相手に行われたが、当時両雄は微妙な関係にあった。5月の第13回Wリーグ戦で馬場が優勝後、猪木が挑戦を表明するも会社側に「時期尚早」と却下されたからだ。そのせいもあってか、3月のV13戦から約4か月という異例のブランクを経てV14戦は開催された。本紙は1面でこの試合の詳細を報じている。
『3月2日、東京でM・マスカラス、S・アリオン組を撃破して以来、防衛戦をやっていなかった馬場、猪木組が4か月の空白を埋める猛ファイトを展開して14度目の防衛に成功した。BI砲には長期間防衛戦をやっていなかったハンディと、猪木の“馬場挑戦問題”がからんで、微妙な関係が生じるなどいくつかの不安が残されていた。それをはねのけた舞台裏に迫った。1本目はエキサイトしすぎて両軍リングアウト負け。しかし2本目は心配されたBI砲の連係は問題がなく、戦前の予想を上回る好ファイトで、馬場がコロフに32文弾、猪木が好フォローですかさずブレーンバスターで2対1で快勝した。軸になったのがチームに“暗いカゲ”を落としていた猪木だったからなおのことだった。猪木は「ファンをお騒がせした意味でも勝ちたかった。心理的にも感情的にも馬場さんに対しては何もない。今でも(挑戦表明した)当時と気持ちは変わっていないが、リングに上がれば馬場さんと一致団結するのは当然」と語った。防衛戦と馬場への挑戦は別個のもの、王座防衛は俺の義務という責任感が14度目の防衛につながった。馬場も「俺と猪木が組んだらそうそう負けるわけがないじゃないか。最高のパートナーだよ」と語った。そこにわだかまりはなかった』(抜粋)
だが内情は違った。その後、同年12月7日札幌でザ・ファンクスを相手にV15戦を行うも、猪木はこの時点で「クーデター」を企てていたとされており連係はバラバラ。1―2で敗れ王座を失う。猪木は翌日から緊急入院してシリーズを欠場。12月13日には除名処分となり、日プロを去って72年の新日本プロレス旗揚げへと向かった。V14戦の時点でBI砲の間の“火種”は消えていなかったことになる。
しかし、お互い内面にどんな感情を隠していたにせよ、14度目の防衛を果たして「最後のベルト姿」を披露したBI砲はやはりまばゆいほどの輝きを放っている。
BI砲は8年後の東京スポーツ新聞社主催「プロレス夢のオールスター戦」(79年8月26日、日本武道館)で再結成を果たし、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組を撃破して日本中のファンを沸かせた。その後はお互いの道を歩み、二度とリングに並び立つことはなかったが、今となっては当時の確執など、もはやどうでもいいことだろう。「BI砲最後のベルト姿」は、様々な事情を無視してもプロレス史に永遠に残る名シーンであった。 (敬称略)













