1月31日は“世界の16文”として一世を風靡した故ジャイアント馬場さんの命日だった。1999年に亡くなってから早くも24年が経過してしまった。意外だが馬場はプロレス興行の“華”である東京ドーム大会には2回しか出場していない。

抜群の呼吸でデモリッションズを同士打ちさせる馬場とアンドレ(左)
抜群の呼吸でデモリッションズを同士打ちさせる馬場とアンドレ(左)

 90年4月13日東京ドームで開催された新日本プロレス、全日本プロレス、WWF(現WWE)初の合同興行「日米レスリングサミット」が初出場の舞台だった。馬場は“世界の大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントと初コンビを結成し、セミに登場している。メインは“超人”ハルク・ホーガン対“不沈艦”スタン・ハンセンの一騎打ちだった。本紙は試合の詳細を報じている。

『“世界の巨人山脈”が東京ドームを席けん。アックス、スマッシュのWWFタッグ王者のデモリッションズを一瞬にしてのみ込む超パワーを見せつけた。“東洋の巨人”馬場が209センチ、“大巨人”アンドレが223センチ。合わせて432センチ。この高さにかなう敵はいないことを証明した。初タッグとはいえ、馬場とアンドレに連係プレーも作戦もいらない。デモリッションズは素早いタッチでアンドレにターゲットを絞る。狙いは世界の巨人の唯一の泣き所である腰だ。マットに大の字にさせてストンピングから反則のチョーク攻撃。ここで“東洋の巨人”が動いた。伝家の宝刀・脳天唐竹割り、ジャイアントチョップのフル回転で救出。この友情にアンドレが応えた。アックスの肩にクローを決めて動きを止め、馬場がスマッシュにネックブリーカードロップ。さらにロープに振って16文キック。「アンドレ!」。試合の権利を有していたアンドレは馬場のコールを受けると、230キロの体重を右腕1本に乗せての毒針エルボードロップから3カウント。馬場、アンドレの“巨人山脈”は、WWFタッグ王者を399秒であっさり料理してのけた』(抜粋)

 息がピタリと合った両雄はこの年から92年まで全日本マットでコンビを結成。暮れの祭典「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも出場した。

 全日本は長く東京ドーム大会を開催しなかったが、98年5月1日に初進出して、これが馬場のホームリングでの“初ドーム”となった。ハヤブサ、志賀賢太郎と組んで新崎人生、泉田純、ジャイアント・キマラ組と対戦。馬場は新崎の十八番・トップロープ拝み渡りを受けたが、コーナーを曲がった瞬間にチョップで叩き落とし、大歓声を浴びた。最後は馬場の16文キックのアシストを受けたハヤブサが、泉田を火の鳥水爆で仕留めた。

 余談になるがこの時期、記者は雑談中に馬場から「今年は(創立)25周年だからできたけど、来年は理由がないしなあ。でも再来年(2000年)は(デビュー)40周年だろ。その時、ドームを取ったら俺が辞めると思っていいよ。40年以上はできんだろ」との言葉を聞いた。緊張と興奮を隠しつつ、ひそかに「馬場引退決意」の記事を狙っていたのだが、99年に急逝したため、記事は結局実現しなかった。

 結果的にはこれが馬場の最後のドーム大会となったのだが、没後2度目のドーム大会(99年5月2日)は「ジャイアント馬場引退記念興行」として行われた。第6試合ではリング中央に馬場のシューズを置き、仲田龍リングアナウンサーが「300パウンド、ジャイアント馬場~」と最後のコールを行い、往年のライバル、ザ・デストロイヤー、ジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノとの名勝負をオーロラビジョンで放送する異例の「引退試合」が行われた(カード上は馬場、デストロイヤー組対キニスキー、サンマルチノ組)。

 戦友3人は馬場夫人の元子さんとリング下で涙ながらに観戦、試合後は10カウントゴングが鳴らされた。なおこの試合は、国内通算5759試合目として公式にカウントされている。

 01年1月28日には「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」として3度目のドーム大会が行われ、全日本ではこれが最後のドーム大会となっている。大きく様変わりした全日本だが、再び東京ドーム大会を開催できるまで大きく飛躍してほしい。
 (敬称略)