【プロレス蔵出し写真館】今から54年前の1968年(昭和43年)4月15日、「第10回ワールド・リーグ戦」の北海道巡業、釧路から旭川に向かう「特急おおとり号」の食堂車に ジャイアント馬場とアントニオ猪木が連れ立って現れた。

 猪木はこの大会での〝馬場援護〟を公言していて、前日の取材でも、「場合によってはもちろん優勝を狙いますよ。一戦一戦を勝ち抜いて白星を重ねていくことが、馬場さんの3連覇の援護射撃にもなるわけだが、ぴったり馬場さんと並行していくということは、最後に僕にもチャンスが回ってこないとも限らない」と答えていた。

 食堂車をのぞくと、猪木の前に座る馬場は手で顔を覆っていた(写真)。「馬場さん、僕はもう馬場さんの援護射撃はやらない。僕も優勝を狙いたいんです」。「寛ちゃん…」。

 そんなやり取りが聞こえてきそうなひとコマだが、実は、これは馬場のカメラマンへのサービスショット。この後、「いい写真撮れた?」とでも言いたげに、馬場はカメラマンを見てニッコリ。馬場は、記者から前日の猪木のコメントを聞いてポーズを考えたようだ。結果的に馬場はこの大会で3連覇を達成。

カメラマンを見て馬場はニッコリ(68年4月、特急おおとり車中)
カメラマンを見て馬場はニッコリ(68年4月、特急おおとり車中)

 さて、猪木は前年の67年4月に日本プロレスへ復帰して第9回大会に初出場。69年の第11回大会で初優勝を果たすのだが、この大会は4者が同点で並び、馬場はボボ・ブラジルと時間切れ引き分け。猪木は卍固めでクリス・マルコフを破り悲願を達成した。この試合は猪木の名勝負のひとつに挙げられる。

 翌70年の第12回大会は馬場が巻き返し、13回大会では11回大会同様4者で優勝を争い(5月19日)、猪木はザ・デストロイヤーに足4の字固めを決められたまま場外へ転落して両者リングアウト。アブドーラ・ザ・ブッチャーを破った馬場が5度目の優勝を飾った。

 そして、プロレス界に激震が走ることとなる。試合を終えたばかりの猪木が、控室で馬場のインターナショナル王座に挑戦すると爆弾宣言したのだ。猪木は、「はっきり言って今度のWリーグ決勝戦の形式も不本意だ。本来なら僕と馬場さんが戦って日本サイドの代表を決めるべきではなかったか。日本プロレスには〝日本人同士は戦わない〟という暗黙のルールがあるが、もはや、馬場さんと僕が雌雄を決すべき時がきたように思う。これは公式声明だと思ってもらいたい。とにかく、コミッショナーに挑戦状を提出する」と語った。

挑戦表明したあと優勝した馬場を祝福する猪木(71年5月、大阪)
挑戦表明したあと優勝した馬場を祝福する猪木(71年5月、大阪)

 翌20日、空路大阪から帰京した猪木は、東京・渋谷にあった日本プロレスコミッショナー事務局を訪れ、挑戦願を正式に文書で提出した。「俺は決してWリーグ戦に優勝できなかった腹いせに、こんなことを言っているのではない。それ相当の覚悟をした上で馬場さんに挑戦したんだ、ということはわかってください」と強調した。

 馬場の反応は、「俺のインタータイトルは俺のものであって、俺のものではない。コミッショナーが挑戦を認め、日本プロレスのフロントオフィスがやれと認めるなら受けて立つ。筋道を通してくれば、猪木と戦うのもやぶさかではない」と一貫していた。 

 5月28日、発表された結論は時期尚早。「まだまだ馬場も猪木も倒さねばならぬ相手は多い。それらをすべて倒して、馬場と猪木が真の世界一を争うというのなら認める」。日本プロレス協会は壮大かつ陳腐な課題を突き付けて終着した。そして、「時期尚早」という初めて聞く言葉に反応して、もっともらしく使う少年ファンは少なくなかった。

 猪木が馬場を挑発するという構図はここから始まっていた。

 ところで、昨年亡くなった猪木は叙位(従四位)・叙勲(旭日中綬章)が授与された。拝受されるのは馬場の誕生日でもある1月23日。他界してからも尚、2人の関わりは続いている(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る