2022年のプロレス界で最も衝撃的な出来事だったのは、10月1日にアントニオ猪木さんが79歳でこの世を去ったことだろう。元猪木番記者が〝昭和〟の燃える闘魂を振り返る連載第25回では、力道山との関係に迫る。記者の小さな言い間違いを聞き流せなかった猪木さん。そこには、師への愛憎入り交じる感情がにじみ出ていた。
どういう経緯でそんな話になったのかは忘れた。35年ぐらい前だから仕方がない。ただ、なぜかこのくだりはハッキリ覚えている。私と猪木さんと、あと誰かがいたような気がする。どこかの会場で、練習の合間の会話だった。
東京五輪が行われたのは何年のことだったかというやりとり。1964年(昭和39年)だったのはもちろん分かっていたが、私は何を勘違いしたか、昭和39年の「9」に引っかかって「1969年でしたよね」と言ってしまった。
これに猪木さんが結構な勢いで、かぶせるように異を唱えた。あまりの強い口調に、少々驚いた記憶がある。
「違うよ、昭和39年、1964年だよ。間違いないって」
猪木さんに言われて、私も自分の間違いにすぐ気がついた。「そうでした、1964年でした。すみません、勘違いしました」と訂正すると、猪木さんはこう返してきた。
「そうだろ、1964年だよ。だって俺は、力道山が死ぬまでアメリカ(武者修行)に出してもらえなかったんだから。死んで、やっと出してもらえたんだ。だから絶対に覚えてるんだ。間違えようがない」
「力道山が死ぬまで…」のくだりが鮮烈だったのだろう。だから覚えていた。
猪木さんは60年の入門以来、力道山の付け人を務めていた。靴ベラで顔を張られるなど、むちゃくちゃされたのはここで改めて言うまでもないだろう。その一方で、同期入門のジャイアント馬場さんは早々に米国武者修行に出されている。
嫉妬、焦り、そして〝無理へんにゲンコツ〟の毎日ーーそれが一気に解消された63年12月15日の力道山の死。目の前が一気に光に包まれた猪木さんの心情は手に取るように分かると、その時思った。
そして力道山に対する複雑な思いをこの一言で思い知らされたような気がした。力道山の死から20年ほどたっていたにもかかわらず…。
(元プロレス担当・吉武保則)












