1日に死去したプロレス界のスーパースター、〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)の通夜が3日に都内で営まれ、猪木さんの弟子や関係者ら333人が参列した。そんな猪木さんの「永遠のライバル」といえば、故ジャイアント馬場さんで一致するだろう。猪木と馬場。日本プロレス界で数々の伝説を築き上げた両巨頭の関係はどうだったのか。東スポOBで、馬場さんと親交が深かったプロレス評論家の門馬忠雄氏(84)に聞いた。
――猪木さんにはどんな印象を
門馬氏(以下門馬)素晴らしいレスラーだったよね。プロレスに関しては、あれ以上の人は現れない。体のバランスは190センチ、110キロぐらいあって。NWAの世界チャンピオンと同じぐらいの体格で、外国に出しても恥ずかしくない体だし、なで肩っていうのも良かった。戦う姿勢も黒いタイツに黒いシューズで意識している。それにスピードと柔軟性があって、もう他人ができる領域じゃないもんね。センスが良かったし、資質の上に稽古がしっかりしてたことが、ああいうレスラーをつくり上げたんだと思うよ。
――猪木さんは練習熱心だった
門馬 猪木は人のいないところで練習していた。真夜中でも思い立ったら練習していたし。それと同時に彼の立派さはね、サポーターとか、テーピングを1回もやってないはず。これは戦う姿勢としては一番だよ。憎まれるぐらいの強さがあった(横綱)北の湖も、テーピングとかサポーターとか絶対しない。それは猪木にも通じるものがある。戦うたたずまい、「オレはプロなんだぞ」と見せていた。あと、彼のブリッジは世界一だよ。ブリッジは「ストロングスタイル」の基本だろうと思うし。
――猪木さんは1972年に新日本プロレスを設立し「ストロングスタイル」を確立させた
門馬 米国のプロレスに「ストロングスタイル」なんて言葉はなかったんだよ。鈴木庄一さん(元日刊スポーツ記者、故人)が、馬場の派手なスタイルに対して使ったのが「ストロングスタイル」なんじゃないかと。当時の新日本にはカール・ゴッチというモデルがいたから、それがぴったりハマった。でも馬場は「アメリカにはこんな言葉ないよな~。こんなばかな話ないよな」って、けむたそうに言ってたよ。馬場さんは米国のプロレスを知り尽くしていた人だから。
――猪木さんと馬場さんの関係は
門馬 不仲、確執があったというのは団体、新日本と全日本のことであって、あのころの活字メディアがあおっただけのこと。本人たちは不仲ではなかった。新間(寿)さん(元新日本プロレス専務取締役営業本部長)が馬場さんの悪口を言っていた時に、猪木は「人間そんな悪い人じゃないんだよ。そんなん言うもんじゃないよ」って言ってたね。38年間見てきたけど、あの2人がケンカしたりしたのは見たことがない。会えば馬場さんは「おー、寛至(猪木さんの本名)、元気~」、猪木は「おー、馬場さん、どうも」って、こうだよ。馬場さんは猪木を「寛至」「猪木」って呼んでいたが、猪木は「馬場さん」と呼んでいた。
――世間のイメージとは違う
門馬 馬場が1963年にロサンゼルスから凱旋帰国するときに、猪木に「これ持っていけよ」と持ち金のドルを渡してたんだよ。その前に馬場は自分のオーバーコートを猪木にあげてる。同期っていうのは、他人が入り込めない絆や、つながりってものがあると思う。馬場と猪木は決して不仲ではなかったよ。
――猪木さんと馬場さんは同時期(60年)に日本プロレスに入門
門馬 もう入門当時は月とすっぽんぐらい差があったの。馬場は読売ジャイアンツから入ってきて、ある程度知名度があって、月給2万円。かたやブラジルから来た17歳の猪木は、仕事が遅かったり、力道山が機嫌悪いとバンバンぶん殴られる。馬場は殴られたことがない。もう出発点から違う。だから猪木の強さって、そこよ。馬場への羨望がねたみになって、最後はもう憎悪だったろうと。猪木の闘争心を増長していく姿ってのは、そういうところだと思うよ。
――猪木さんはリング外でも話題になるレスラーだった
門馬 猪木を誘って、(66年に)東京プロレスを設立した兄貴分の豊登(道春)がとんでもなく変わった人だったのね。トラックの中に自転車持ち込んで移動したり、「フィリピンのルソン島に山下奉文将軍が埋蔵した宝物を探しに行く」とか言って。それをそばで聞いてた17歳の猪木は真に受けちゃう。奇想天外な発想をしていたのは、豊登から影響を受けたんだと思うね。












