1日に心不全で死去したアントニオ猪木さん(享年79)には、「後継者」として期待した意外な男が2人いた――。燃える闘魂と二人三脚でモハメド・アリとの世紀の一戦を実現させるなど、側近中の側近として支えた元新日本プロレス専務取締役営業本部長の〝過激な仕掛け人〟新間寿氏(87)が明かす「闘魂備忘録」。2回にわたりお届けする前編では、猪木さんが獲得を熱望しながらかなわなかった〝幻の怪物獲り〟について語る。
新間氏はかつて、猪木さんに「日本の富士山はジャイアント馬場さんで、猪木さんは(標高2位の)北岳か(3位の)間ノ岳だ。だったら私は世界のエベレストにしますよ」と言ったことがある。猪木さんは「新間、あまりでかいことを言うなよ」と謙遜したが、新間氏は「俺は本当にアントニオ猪木を世界一にした」という自負がある。
新間氏 向こう(馬場さん率いる全日本プロレス)は豪華客船で船長と操縦士が就き、レスラー全員が船客で豪華な食事をして、日光浴したり、トレーニングをしながら過ごしていた。新日本プロレスは木を切ってイカダを作って船出した。最初からそういう違いがあった。アントニオ猪木には、全日本に負けないという意識が強かった。その意識が有能な人をどんどん獲れといういう動きにつながった。
その一人が、後に「ジャンボ鶴田」として怪物の異名を取った鶴田友美さん(故人)だ。1972年ミュンヘン五輪レスリング代表として活躍した「金の卵」の獲得を、猪木さんも熱望。そこでレスリング出身だったテレビ朝日の運動部長(当時)が中大レスリング部に所属した鶴田さんの調査に出向いたという。
新間氏 ところがその後、何もなかったので、猪木さんは「おかしいなあ。新間、聞きに行って来い」となった。そうしたら「あれは弱くてダメだ」という報告だった。猪木さんはこれに怒ってね。「バカじゃないか。今弱くても、うちの道場でいくらでも強くなれるじゃないか。なんで、それがわからないんだ。今を見るな。将来を見て、その人間をスカウトするべきだろ」って言ったんだ。
結局、テレビ局の協力を得ることができず、鶴田さんは72年、全日本に入団。73年3月のデビュー後は、プロレス界を代表する選手として活躍した。実は中大の先輩にあたる新間氏はその後、鶴田さんと対面する機会があり「新日本プロレスのほうが戦うプロレスをやっているから、将来も応援できる」と誘ったが、鶴田さんは「馬場さんにお世話になっていますから」。そこで猪木さんの指示でテレビ朝日幹部と鶴田さんを会わせたが、首を縦に振ることはなかった。
新間氏 鶴田はあれだけの体(現役時196センチ、127キロ)だったからね。猪木さんは後継者にしたかったんですよ。欲しがっていたから私も動いたんです。最初に「(テレ朝運動部長が)猪木さん、獲りましょうよ」と言ってくれてたら。鶴田が新日本に来ていたら、面白くなっていただろうね。猪木さんはそういう点(先見)で違った。
もう一人、猪木さんが新日入りを心待ちにした男がいる。84年ロス五輪柔道男子無差別級金メダリストで、現日本オリンピック委員会(JOC)会長の山下泰裕氏だ。祖父の泰蔵さんが大の「猪木ファン」ということも後押しした。関係者の紹介で新間氏が泰蔵さんと会い「もし、ケガをして1年か2年でできなくなってしまっても、テレビ朝日で引き受けてもらう」という口説き文句で仮契約書を交わし、契約金の一部を渡した。
新間氏 柔道世界一だからね。猪木さんは「絶対に獲れ!」と。仮契約したことを報告したら「おおっ、それはいい」と言ってくれてね。山下さんも後継者にしたかったんですよ。
ただし、契約書に「泰裕が断ったらこの話はなし」という項目があった。半年後、断りの連絡があり、契約金の一部も返された。鶴田さんに続き、山下氏の獲得にも失敗した猪木さんのショックは計り知れない。数々の輝かしい功績の裏で、時には思い通りにならないこともあった。だが、そんな猪木さんと過ごした11年間を、新間氏は「最高の年でありました」と振り返る。
新間氏 (訃報を知り)何も考えられなかったですよ。頭の中が空っぽになった。私にとって、アントニオ猪木は6メートル40センチの中の神だった。リングの中の神でした。












