【昭和~平成スター列伝】10月1日に死去した“燃える闘魂”アントニオ猪木さん(享年79)の永遠のライバルは、言わずと知れた“世界の16文”こと故ジャイアント馬場さんだった。10月15日付本紙終面では本紙OBのプロレス評論家・門馬忠雄氏が「本当の2人の絆」について、裏話の数々を披露している。
両雄は日本プロレス時代に「BI砲」と呼ばれ、一時代を築いた。猪木は1966年に東京プロレスに移籍し団体崩壊後は日プロに復帰。初めてBI砲が結成されたのが67年5月12日岐阜大会だった。相手はワルドー・フォン・エリック、マイク・デビアス組。2―0でBI砲が完勝し、本紙は1面で早くも「BI大型コンビ豪快な殺人二重奏」の見出しでBI砲の初陣を報じている。
さらには「日本プロレスに新風を吹き込んだ猪木と、王者馬場がタッグを組むのはこの日が初めて。一番気になるチームワークもこの日は百点満点だった。猪木は復帰以来、常に馬場と行動をともにしている。旅館は馬場の隣の部屋。移動ではしばしば2人で連れだって食堂車に姿を見せる。感情的に懸念されていた馬場と猪木の仲がこううまくいくとは誰も思っていなかった。それだけにリング上で見せた2人のコンビはすばらしく、完全にBIコンビの時代がきたことをアピールした」と分析している。
猪木の退団と東プロ移籍、復帰のわだかまりはなくなっていたわけではないだろうが、2人の関係を物語る。そして結成からわずか半年でBI砲として初の王座を獲得する。長く2人の象徴となったインターナショナルタッグ王座であった。
67年10月31日大阪府立体育会館でBI砲として初めて王座に挑戦。王者はターザン・タイラー、ビル・ワット組。同年10月6日福島で馬場、吉村道明組から王座を奪ったばかりでこれが初防衛戦だった。観衆は超満員1万人。本紙は1面で王座戦の詳細を報じている。
「戦いはスタートからエキサイト。1本目は場外で4人がパンチ、机、イスの大乱闘。ワットが猪木を机で痛撃したのがレフェリーの目にとまり反則負け。2本目は王者組がスパート。ワットがガンガンと馬場にニードロップを叩き込み、場外から上ってきたところをターザンが狂乱のストンピング。グロッギーの馬場の顔の上で“死のダンス”を踊り、あっという間にフォールを奪った。決勝ラウンドはワットをとらえて猪木と2人がかりの秘密兵器の新殺法・ダブルショルダースルーで叩きつけ、ロープに飛ばして必殺の16文キックのカウンターでワットをフォール。25日ぶりに王座を奪還して馬場、猪木組は第14代王者となった。馬場は『猪木とのコンビには自信があった。それが3本目に結集された』と語った」(抜粋)
BI砲は通算4回の戴冠と29回の防衛を果たして、日プロの看板コンビとなった。しかしインターナショナルヘビー級王者でもあった馬場との扱いには差が生じていたのは明らかで、猪木の不満も募るようになる。71年5月の第13回Wリーグ戦で馬場が優勝後、挑戦を表明するも会社側に却下されてしまった。この時点でBI砲の蜜月時代はピリオドを打った。
BI砲として最後の試合となった71年12月7日札幌。ザ・ファンクスを相手に防衛戦を行うも、猪木はこの時点で「クーデター」を企てたとされており、コンビネーションはバラバラ。1―2で敗れ王座を失う。猪木は翌日から緊急入院してシリーズを欠場。12月13日には除名処分となり、日プロを去って72年の新日本プロレス旗揚げへと向かう。
その後は新日本プロレスと全日本プロレスは敵対する関係になるが、本紙主催の「プロレス夢のオールスター戦」(79年8月26日、日本武道館)で約8年ぶりにBI砲を復活させ、ファンを号泣させた。その後、交わることはなかったが、今となっては若き日のBI砲の輝きは、永遠に語り継がれるだろう。
(敬称略)













