【武藤敬司の軌跡(26)】 2001年は3冠ヘビー級、世界タッグ、IWGPタッグの3タイトルを取って「6冠王者」になった。だけど、問題は新日本の“空気”だ。アントニオ猪木さんの意向もあって格闘技路線に傾き始めたんだよ。きなくさい感じで「俺のキャリアは潰されるな」って感覚。俺が出る? それはないし、嫌がる者にさせることはないけど、そういうスタイルを喜ぼうとすることが嫌でね。
そんな時、出稼ぎで全日本の純粋なプロレスをやると、お客も歓迎してくれて。それが心地よくて傾倒していって。年末に馳浩先生から「全日本に来ない?」って言われて移籍を決めたんだ。社長の話? あったよ。馳先生から「全日本、いただく?」って。男だからさ、一国一城のあるじを夢見るのもいいかって思うじゃん。それで、02年1月4日の東京ドームを最後に新日本を離れたよ。
移籍した時に、小島聡と棚橋弘至だけ誘って。棚橋は断ったけど、それで良かったと思うよ。イシザワ(ケンドー・カシン)は俺じゃねえ。馳先生が連れてきたんだ。で、ほかの移籍と違うのは社員5人も一緒に全日本に行ったんだ。社員も俺と同じ感覚でやきもきしてるのがいたんだよ。正直、選手よりも体制づくりの方が大事だと思ったから声をかけた。
満を持しての移籍だったけど、最初は大変だったな。2月9日の後楽園ホール大会であいさつしたけど「乗っ取り」って感じでブーイング。でも俺たちが行ったことで試合が組みたつようになり、受け入れられたよ。その後は、いろいろありつつも10月に株式の譲渡を受けて社長になった。
そこで全日本を立て直す一環でスタートしたのが「ファンタジーファイト WRESTLE―1」(※)。やっぱり「テレビが必要だ」と交渉していく過程で、局側から「PRIDEとK―1がいいって言わないとできない」って。当時はその2つが大人気で、変な話テレビを牛耳っていたから。テレビの人間からするとPRIDEもK―1もプロレスも同じようなものなんだよ。
だったら「その2つと手を組んでみよう」って。ところが肝心のK―1とPRIDEが選手の引き抜きやらで仲が悪くなっちまってさ。それで俺は2回目で仕切りから撤退したんだよね。
ただ、その経験で得たものはあったよ。WRESTLE―1でネームバリューのある格闘家にプロレスをやらせたけど、やっぱりプロレスはプロレスができる職人を集めた方がいいなって改めて感じたんだ。だから、その方向にかじを切ることができた。それがいわゆる「パッケージプロレス」になっていくわけだ。
※ 02年11月17日と03年1月19日に開催。K―1とPRIDEと全日本が手を組み「ボブ・サップのプロレスエンターテイメントショー」とのキャッチコピーでフジテレビでも放送された













