【武藤敬司の軌跡(25)】 2000年末に帰国して猪木祭りに出た後、年明けの1月4日に新日本の東京ドーム大会で大谷晋二郎と組んで中西学、獣神サンダー・ライガー組と凱旋試合をやったんだ。正直、この時は「大谷と組んで何かやっていこうかな」とか考えていたんだ。だけど大谷は橋本真也とくっついてゼロワンに行っちまってな。

武藤(中)は馳(左)やフライとBATTを結成(01年3月)
武藤(中)は馳(左)やフライとBATTを結成(01年3月)

 そういう時に会社から「全日本の東京ドーム大会に出て、太陽ケアってヤツとやってくれ」っていう話が来てさ。最初は断ったんだよ。ケアなんて知らなかったし、得を感じなかったから。でも説得されて1月28日にケアとシングル戦をすることになったんだ。

 そしたら想像していた以上にレスリングがしっかりしていてね。基礎もできていて、そういうレスラーを育てられる「全日本プロレス」という土壌に興味が芽生えたんだよ。全日本の印象? ゼロに近いよ。選手の多くが抜けた(※)後だったしね。それがケアと試合をして印象が変わった。ちなみに、この試合でシャイニングウィザードも生まれたよ。あれはとっさだった。試合中のひらめきだったよ。

 全日本に呼ばれた理由? 詳しくはわからないな。でも後に馬場元子さんか誰かから聞いたんだけど、ジャイアント馬場さんが俺のことを評価していたらしいよ。だから元子さんにも俺の名前がインプットされてたんだと思う。

 新たにユニットの「BATT」を立ち上げたのが、ちょうど、この年の3月。ケア、俺、新崎人生とドン・フライ、馳浩先生、大谷もいたか。「Bad Ass Translate Trading」の略で「垣根を越えた悪ガキども」ってつづりなんだけど、最初はいかにも「日本語英語」って感じのつづりでさ。フライに見せたら「センスがない」って。BATTに合わせて考えてくれたんだよ。

 あのころは蝶野正洋が「TEAM 2000」をつくったから、俺も対抗して新しいのをやらないといけなかった。その中で、他団体を巻き込んだものをつくっていこうという狙いでやったんだ。そういう流れもあって、新日本と全日本がいいお付き合いをしていくんだよね。蝶野が全日本に上がったり、渕正信さんと川田利明が新日本に来たりさ。

 その流れの中で、俺は6月に天龍源一郎さんから3冠ヘビー級王座を奪取するんだよ。さらにケアと組んで世界タッグ、IWGPタッグも取って「6冠だ!」ってエビのように体にベルトを巻いてさ(笑い)。ただ、そのころから新日本は俺の目指すものと違う方向を向き始めてね。だから俺も新たな一歩を踏み出すことになったんだ。

※2000年に三沢光晴ら所属選手が全日本から大量離脱。同年8月にプロレスリング・ノアの旗揚げ戦を行った

【武藤敬司の軌跡】記事一覧へ