10月1日に死去したアントニオ猪木さん(享年79)には、数多くの好敵手がいた。中でも1987年10月4日に行われた「巌流島決戦」に代表される死闘を繰り広げたのがマサ斎藤さん(故人)だ。元猪木番記者が〝昭和〟の燃える闘魂を振り返る連載第19回では、マサさんとの〝本当の関係〟を記す――。
私が担当していたころ、猪木さんはことあるごとにマサ斎藤さんと戦っていた気がする。87年3月26日に大阪城ホールで行われた「INOKI闘魂LIVEパート2」、1か月後の4月27日、両国国技館、そして10月4日の巌流島と、大きな試合で一騎打ちを立て続けに行っている。
当時の私の感想は「なんでマサさんとばかり」だった。「闘魂LIVEパート1」の相手は、あのモハメド・アリに勝った男、元ボクシング世界ヘビー級王者レオン・スピンクス。いわゆる〝対世間へのアピール度〟という点で、マサさんでは心もとないのではと思った。それで新日本プロレス幹部に「マサさんでいいの?」と聞いた記憶がある。マサさんには大変失礼な話だったが…。
両国での試合は史上初のノーロープマッチとなり、猪木さんがマサさんを血ダルマにしてKOした。私が担当していた期間の猪木さんのベストバウトだと思っている。私は「マサさんとはこれで決着がついた。次は長州力迎撃だな」と思ったものだ。
ところが、巌流島でまたまたやるというではないか。巌流島決戦に臨む前、猪木さんに直撃してみた。
「なんでマサなのか? フフフ、それはマサも俺も、すべてを捨てて戦いに臨むことができるからだよ。俺は離婚して独りになった。マサも刑務所に入って(注・警官への暴行で85年6月から1年半、米国内の刑務所に収監された)すべてを断ち切られた。いろんなしがらみを振り切って、裸一貫で戦えるのは俺とマサしかいないんだよ」
当時はけむに巻かれた気がしたが、「俺とマサしかいない」とまで言い切れるほど強い絆で結ばれていると分かったのは、それから何十年もたってからだった。2016年、闘病中のマサさんは私にプロレス人気を復活させる方法を聞かれると、震える声でこう絞りだした。
「アントニオ猪木のプロレスをやればいいんだよ。アントニオ猪木がやってきたプロレスをやれば大丈夫、間違いない」
猪木さんとともに日本プロレスから東京プロレスに参加したマサさん。それ以来の付き合い。猪木さんのプロレスに共感、心酔していたのがよく分かるコメントだ。そして猪木さんもマサさんを評価し、マサさんが相手なら、必ずいい試合ができると確信していたのだろう。だから大舞台で一騎打ちを続けた。
そういえば当初、巌流島決戦は藤波辰爾 vs 長州力だったのを、猪木さんは「あいつらじゃ無理だ。俺とマサでやる」と強奪したのだった…。
18年、マサさんが亡くなった際、めったに葬式に行かない猪木さんが葬儀場まで出向き、車の中から門に向かって手を合わせたという。しかもその後、マサさんの未亡人である倫子さんに電話を直接かけ、深い弔意を表している。
アントニオ猪木とマサ斎藤。2人の間には、いつも揺るぎない信頼と敬意があった―ー。












