1日に死去したアントニオ猪木さん(享年79)の代名詞は「ストロングスタイル」。しかし1978年2月8日、新日本プロレスの日本武道館大会で日本初となるネール(釘板)デスマッチにも臨んでいた。上田馬之助と対戦した伝説の一戦は11分2秒、アームブリーカーの波状攻撃でKO勝ち。一方で決戦当日、猪木さんは日本、いや世界初のバトルロイヤルもプロデュースしていた。決死の覚悟で出場した〝選手〟がその舞台裏を振り返る。

 猪木は柔道王W・ルスカ、ボクシング世界王者M・アリ、極真空手家W・ウィリアムスら世界の格闘家と大金字塔を打ち立てた。それら異種格闘技戦はマット史にさん然と輝いている。

 猪木が企画・立案・自ら戦ってみせた。しかし、マット史に残らず、猪木が企画した異様な戦いが残されている。

 プロレス担当記者によるバトルロイヤルだ。「プロレスラーの戦いをいろいろと批評するのは結構なこと。それならばリングに上がって、戦ってみればいい」と猪木はV賞金にポンと30万円を提供したのだ。

 当時28歳の記者の月給が10万円そこそこ。大金であった。V賞金に目がくらんだのが出場理由と言ってもいい。1社2人、18人参加のバトルロイヤルは昭和53年(1978年)2月8日、日本格闘技の殿堂・日本武道館で決行されることとなった。ルールは3カウント退場、関節技禁止。

 その日は猪木と金狼・上田馬之助がネールデスマッチを行う日でもあった。異様な雰囲気に満ちあふれていた。

 学生時代に合気道部に所属し黒帯(三段)。「なんとかなるだろう」の自信はあった。東スポのチャレンジルポでジャンボ鶴田に挑戦した経験もあり、リングの高さ、マットの硬さ、ロープに飛ばされた時の痛さも知り尽くし、優位に働くとも考えていた。

 当時の桜井康雄運動部長から「取材も酒もストロングスタイル。リングに上がってもストロングスタイル。わかってるな!」と優勝を厳命された。

 大学を卒業して6年目。時折道場で稽古もしていた。酒をやめて走りだした。当時はプロレス担当制もなく新日、全日、国際と3団体をまたにかけて取材。当時、全日プロの東北巡業に出ており、寒風吹きすさぶ朝方に走り込んだ。

 運命の日は全日本秋田・大曲大会を取材後に夜行寝台車に乗り、日本武道館へ向かった。9社18人がリングに集結して戦いは始まった。G誌のT氏は仮面貴族M・マスカラスのマスクをかぶって登場。真っ先に狙い撃ちにあい退場。のち猪木の懐刀となる本紙のN氏もあっという間に消えた。

 残ったのは記者とテレビ朝日のT氏の2人だけ。T氏は坂口征二の後輩で明大柔道部OB。これまた坂口から優勝を義務づけられていたという。ここで関節技も解禁されたが、決着はつかず「面白くもおかしくもない」。猪木のツルのひと声で両者Vのドロー。優勝賞金は2人に5万円ずつで、あと全参加記者に参加賞が贈られた。

 試合前の戦い済んで腕はパンパンに張り、ボールペンさえ握れないほどに疲労困ぱい。全世界マットを見通しても記者によるバトルロイヤルは史上初。後にも先にもこれ一回限りで闇にしまい込まれてしまった。茶番事とも言われるかもしれないが、28歳の若さでこんな戦いに参加できたことを猪木に感謝したい。

(元東スポプロレス担当・川野辺修)