1日に死去した〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)は、数々の「伝説の一戦」を戦った。中でも死闘の名にふさわしい試合は、1987年10月4日に行われた「巌流島決戦」だろう。宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘に臨んだ地で、マサ斎藤(故人)との2時間5分14秒に及ぶ〝落日の戦い〟を制した。伝説の裏側には何があったのか? 当時、巌流島で密着取材した記者が振り返る。
1987年の夏だったか。確か京都府立体育館だったように思う。試合を終えた猪木さんは、とり囲んだ報道陣にこうつぶやいた。
「誰にも邪魔されないところでマサ斎藤と男と男の決闘をする。巌流島でだ」
巌流島…ですか。小耳には挟んでいたものの、実際に猪木さんの口から聞かされると戸惑った。あまりに突拍子もない話で、他紙の記者の戸惑いは私以上に大きかったようだ。私がデスクに促され原稿を書き始めるのを見て、初めて「東スポが書いてるんだから大丈夫だろう」とデスクに報告するほどだった。
隣の部屋でマサ斎藤が「いいか猪木、男だったら巌流島で勝負しろ!」とテレビカメラに向かってほえているのが聞こえてきて、ようやく安心したというのが私を含めた報道陣の正直な心境だ。
ということで、私は1週間前から巌流島がある下関に先乗り。巌流島は平地と、身の丈ほどに草が伸びた泥地に分かれていた。平地は地元の人たちが試合のために、わざわざ手で草を刈ってくれたのだとか。巌流島を見続けて何十年という船渡しを営んでいた森老人に話を聞いて、「底なし沼」だの「猪木海上襲撃 マサ斎藤は泳げない」だの書き飛ばして、決戦ムードをあおった。
決戦前日の10月3日、猪木さんが下関入りしたが、40度近い発熱で寝込んでいるとの発表が…。借金がらみで捕まらないようにしたいんじゃないのかと当時は思っていた。後年、猪木さんに臨時付け人として同行していた船木誠勝に発熱のことを聞いても「熱、出していたんですか? 普通だったと思いますがね。試合後、メシ行くぞって、フグに連れていってもらいましたから」とのことで、発熱は〝大本営発表〟と認識していた。
ところが今回猪木さんが亡くなって、改めて関係者に確認すると、どうやら本当のことだったようだ。猪木さんが帯同してきた倍賞鉄夫さんが青くなって「このままじゃ明日の試合はできない」と氷をかき集め、何とか38度5分くらいまで下げたという。タオルは猪木さんの汗で7本ずぶぬれになったとか。
そんなこんなで決闘当日。暁の決闘のはずだったが、マサ斎藤が主張した夕日の決闘になり、そのうち日が落ち、かがり火がたかれる。マサさんがそこに突っ込み、かがり火の台が倒れる。戦いは場所を移して続行されたが、倒れた台を立て直したのは坂口征二。散らかったまきも丁寧に入れ直していたそうだ。
そして戦いは2時間5分14秒で決着がついた。マサ斎藤は額の流血がひどく、救急車で市内の病院に運ばれた。救急車に乗る前、応急措置していたリングドクターに傷の程度を聞くと「えーっと、深さ5センチ!」。「先生、それじゃ脳みそまで達してますよ」と指摘すると「あー、じゃ2センチ」。それでも、ヤバいんじゃないですかというツッコミは飲み込んだ。ドクターも興奮していたのだから。
猪木さんは這って船に乗り込み、巌流島を後にした。しかし、刈られた草の残った部分で体中に切り傷を負っており、全身消毒のため病院に搬送されたとか。
もともとは、藤波辰爾と長州力の一騎打ちのはずだった巌流島決戦。それを猪木さんが「あいつらには無理だ。俺がやる」と横取りしたのは有名な話だ。倍賞美津子さんとの離婚話が進んでいたときに「すべてを捨てて戦う」巌流島は、話題をそらす格好の舞台という計算だったのは間違いないだろう。そして計算通り、われわれ報道陣もプロレスファンも熱狂の渦に巻き込まれたのだった。 (元プロレス担当・吉武保則)












