〝燃える闘魂〟は金銭感覚も並外れていた――。1日に心不全で死去したアントニオ猪木さん(享年79)は、昭和のプロレスラーを象徴するかのように豪快、豪傑だった。特に「お金」にまつわる数々の伝説を残し、背負った借金も青天井…。当時をよく知る元猪木番記者が〝昭和〟の燃える闘魂を振り返る第2回では、猪木さんのお金にまつわる話を一挙公開する。

 猪木さんといえば、借金。モハメド・アリ戦で莫大な借金を背負い、返したと思ったら今度は悪名高きアントン・ハイセル(ブラジル政府を巻き込んだバイオ燃料事業)で数十億円の借金を背負い、返済に追われた。手形が落ちず、テレビの生中継が始まった後に、あわてて会場に滑り込んだ姿も何度か目撃している。

 その頃の猪木さんがどんな暮らしぶりだったかというと…まぁまぁ優雅な暮らしを送っていたように見えた。

 例えば巡業先への移動。乗るのは新幹線グリーン席と飛行機のファーストクラスだけ。降りたらタクシー。どんなに遠くてもだ。万札を2~3枚渡していたのも珍しくない。新幹線から在来線に、飛行機からバスや鉄道に乗り換えることなど全くなかった。海外でもそうだった。タクシーどころか「明日はリムジンを手配してくれ」と言われ、手配したこともあった。

 ある時、大阪の伊丹空港から猪木さんの定宿までのタクシーに同乗させてもらったことがある。着くと「これで払っといてくれ」と1万円渡された。おつりは6000円ちょっとだったか。「おつりです」と渡そうとすると「とっとけ」。そのホテル内の理髪店で猪木さんと一緒に調髪しようとすると「一緒に払っとくよ」。辞退して自分で払うと、ちょこちょこっと切っただけで1万円弱も取られた。

 海外に行けば、ヴェルサーチなどブランド服を大量買い。私はエンポリオ・アルマーニを1着だけ購入しようと手に取ったのだが、それを見つけた猪木さんは「お、買うのか。じゃあ俺が一緒に払っとくよ」。謹んで辞退したものの、分不相応な値段で「やっぱり払ってもらうんだった」と大いに後悔したものだ。ラスベガスでは、クレジットカードを預かった若手選手が舞い上がって個人的に使いまくっても、笑っているだけ。

 食事も毎日毎食、豪華だった。オランダ・アムステルダムのスキポール空港では自分が生まれた年につくられたワインを見つけると即、購入。「これは飲むのが楽しみだ」と悦に入っていた。確か100万円前後だったと思う。

 一応、新日本プロレスの社長(当時)だったので、それなりに自由になる金も用意されていたのだろう。借金の額が桁違いで、細かい金額に構っていても仕方がないということもあったろう。しかし、大借金にもめげなかった一番の要因は、猪木さんの「お前の金は俺の金」という思考回路だった気がする。

 元新日本プロレス取締役の上井文彦氏がこう言っていた。「猪木さん、金を借りたやつのところにもう一度借りに行ったかって聞くんです。そんな…でしょ。いや~、返してないのに行けないですよと言うと、バカ、そこを行くんだよって(笑い)。そんなこと、猪木さんにしかできないですよね」

 これが猪木さんの真骨頂。関係者の話を総合すると「壮大な構想を、何度も話を飛ばしながら熱弁を振るっているうちに、聞いている方は何が何だか分からなくなって金を貸してしまう」らしい。まさに魔性のトーク、錬金術。だから金を返していなくても、また引っ張りに行ける。

 実際、どこまでも貸した人は何人もいるし、あれだけあった借金も1991年の東京都知事選不出馬と引き換えに有力後援者に肩代わりしてもらった。金は誰かが持っていて、そのうち転がり込んでくるという〝確信〟が常にあったからこそ、借金地獄を克服できたのだろう。

 段ボールに詰まった新日本プロレスのその日の売り上げを、ごっそり持っていくのも、猪木さんにしてみれば「俺の金じゃん」ということだったのかもしれない。(元プロレス担当・吉武保則)