1日に死去したプロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(本名猪木寛至=享年79)は数々の伝説を残した。〝燃える闘魂〟の「秘話」を振り返る第4回は、1981年から95年まで猪木さんを撮り続けたベテランカメラマンが、思い出をつづった。

【さらば燃える闘魂4】

「猪木さんのファンでした」。そう話しかけると猪木さんは「藤波(辰爾)も俺のファンだったんだよな」。大して珍しくもない…そんな様子だった。地方巡業で先輩記者、カメラマンに紹介してもらい猪木さんと酒席をともにし、初めて言葉を交わした。

 普通に猪木さんと話をする先輩方と違い、私はというと、憧れの人を前に緊張してしまい、まったくその場での会話が耳に入らなかった。

 後日、背中を流す機会も先輩カメラマンにつくってもらった。「背中、流させてくださいって言え。猪木は絶対、断らないから」と促され、宿舎の大浴場で湯につかる猪木さんに恐る恐る声をかけた。けげんそうな顔をしながらも「お願いします」と応じてくれた。私は力加減がわからず、なにか大事な宝物を触るような感じ…背中を流すというよりは、なでていただけのような気もする。

 1985年12月、前田日明らUWF勢が新日本プロレスに業務提携という形で戻ってくる数か月前、ある地方巡業で猪木さんから声をかけられた。

「ちょっといい?」と言うと、控室並びにある暗がりの倉庫に入って行く猪木さん。

 そして「今度、前田たちUWFの人間を戻すかどうか迷ってるんだけど、どう思う?」と聞いてきた。もちろん猪木さんはいろいろな人にリサーチしていたのだろうが、まさか、若手のペーペーカメラマンの私にまで聞いてきたことに大変驚いた記憶がある。ひと通り、こちらの思っていることを聞いてくれた。

 結局、前田らは新日本に戻ったのだが、猪木さんは自分が若いころ東京プロレス、そして意に反して新日本プロレスを旗揚げすることになるなど、基本的に去る者は追わず(とはいえ、長州力らの離脱では「ひと足早い大掃除ができた」と過激発言もあったが…)、来る者は拒まずのスタンスだった。いまだにかつての弟子たちと良好な関係を築けているのも、そういうことが理由なのではないだろうか。

 猪木さんのトレードマークと言えば「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」という言葉があった。これはいつ頃言われ始めたのか? アーカイブを調べていくと、今から56年前の昭和41年(1966年)10月12日、東京・蔵前国技館で行われた東京プロレスの旗揚げ戦だったようだ。

 猪木はジョニー・バレンタインをリングアウトで下し、控室で記者団のインタビューに答え「(バレンタインと)何度でも、誰とでもやります。ボクはプロだ。プロレス以外のボクサー、空手マン、だれの挑戦でも受けて立ちますよ」と語っていた。

 当時の紙面によると、猪木さんは帰国に備え(この時点では日本プロレス)、米国西海岸での武者修行の後半は、プロモーターの試合依頼を断り、武道を中心としたトレーニングに没頭していた。ジョージ土門さんの「ドモン・ジム」で空手は窪田孝行師範、少林寺拳法は明大OBに師事していた。そして柔道、合気道なども。この時期に自信が植えつけられたのだろうか。

 自ら最強の敵と称した自分自身と闘った猪木さん。最後までトレードマークだった言葉を貫いた。(元写真部・木明勝義)