知られざる闘魂の〝最期〟とは――。プロレス界のスーパースター、アントニオ猪木さん(本名猪木寛至=享年79)が1日に都内の自宅で心不全のため死去し、日本中が深い悲しみに包まれている。猪木さんは難病「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」と闘ってきた。〝悪魔仮面〟ことケンドー・カシンが取材に応じ、師匠の壮絶な闘病生活と、生前に譲り受けた貴重な〝遺品〟にまつわるエピソードを語った。

 最初の言葉は意外なものだった。1日にこの世を去った師匠の猪木さんについて、カシンは「やっと楽になれたんじゃないですかね。相当、苦しそうでしたから」と静かな口調で語った。

 カシンは1992年に新日本プロレスに入団。猪木さんの付け人を務めるなどして師事し、旧IGF時代には猪木さんが若手選手に「俺のことを一番わかっているのはあいつだから。あいつの言うことは、俺が言っていることだと思って信じていい」と話すほどの信頼を寄せられていた。

 だからこそ、カシンは闘病中の猪木さんのそばにいる機会もたびたびあったという。当時の様子を「寝ていても起きていても苦しそうな感じでした。夜は一度横になっても、苦しくなって午前2時か3時に起きてしまう。それで背中をさすったり、ベッドからマッサージチェアに移動して姿勢を変えて、また寝るという感じでした」と語った。

 難病「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」と闘い続けた猪木さんだが、同時に徐々に〝元気〟を奪われていったのも事実だった。それでも「世間が求めるのなら、素直に応えるほかにない」としてユーチューブで闘病の様子を積極的に発信。今年8月には日本テレビ系「24時間テレビ」にも出演するなどしたが、弟子には「みんなからは『頑張れ、頑張れ』って言われてるんだけどさ…」と弱音を吐くこともあったという。

 時には壮絶な光景を目にすることもあった。「ある時に足の指をケガしてしまい、転んでしまったことがあったんです。その時、起き上がるのを手伝おうとして看護師さんが猪木さんの手を取ったら、そのままズルっと皮がむけてしまった。アミロイドで皮膚まで弱ってしまっていたんです」

 そんな固い信頼で結ばれた師弟の最後の会話が交わされたのは、死去する約1週間前だった。カシンの携帯に師匠から電話があった。

「携帯の画面(に猪木さんの名前)を見て『面倒だなあ』と思って、無視してポケットに戻したんですけど、間違えて『通話』を押してしまった。それでしょうがないから出たら『パチンコは最近何してるんだ?』って。パチンコ? 安田忠夫のことです。それで『安田に会いたいんですか?』って聞いたら『うん』って。だから『じゃあ連れていきます』って。それが最後の会話でしたね。最後の会話は安田忠夫。安田の連絡先? 俺が知ってるわけないだろ」

 2人が最後に直接会ったのは7月下旬。新生「IGF」の誕生とともに、引っ越し作業に取りかかっているタイミングだった。カシンはその荷物の中に、伝説の鍛錬器具「コシティ」がなにげなく置かれているのを見つけた。〝神様〟カール・ゴッチから伝えられたといわれるこん棒に近い形をしたトレーニング道具で、猪木さんが愛用したものだ。サインと2003年2月20日の日付も刻まれていた。

 この貴重品を見逃さず、カシンは「いただけないですか?」と〝おねだり〟した。すると猪木さんは「うん」と快諾。「それで着払いで送ってくれるっていうことになって、先週くらいにやっとうちに届きました。タイミングが感慨深いものがある? いや、そういうのはないな。でも、これからはこのコシティを使ってトレーニングをしますよ。そして俺は、このコシティとともに戦っていく!」と天を仰いだ。

 最後に「猪木さんがやりたかったことは、やっぱりプラズマなんです。最近は、プラズマの話が一番多かったから。ホントに」と、水プラズマによる世界のゴミ問題解決に取り組んでいた師匠の思いを代弁する。

「プラズマについて、本当にまだまだ情熱を持っていたんですよね」。水プラズマで環境問題を解決し、人類が汚した地球をきれいにすると豪語していた猪木さん。そのどでかい夢の実現を見届けることはなく、天国へ旅立った。