【プロレス蔵出し写真館】新日本プロレスの「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア(BOSJ)」は、優勝戦進出を目指し熱戦が展開されている。

 BOSJは1988年(昭和63年)に「トップ・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」の名称で始まり、94年から現在の名称に改称された。

 88年に第1回大会が行われたが、第2回大会が開催されたのは91年。2年間の空白を経ていた。ジュニアが重用されなかった期間もあった。

 さて、第2回大会にはそうそうたる顔ぶれが揃った。獣神サンダー・ライガー、保永昇男、ペガサス・キッド(後のワイルド・ペガサス)、ネグロ・カサス、オーエン・ハート、デイブ・フィンレー、フライング・スコーピオの7選手。

 優勝候補のライガーは「気合を入れ直す」と、保持していたIWGPジュニアヘビー級王座を大会前に返上した。

 4月30日の両国国技館大会は、優勝戦とともにIWGPジュニアヘビー級王座決定戦として行われたのだ。公式リーグ戦の結果は4選手が4点の同点で並び、当日、優勝戦進出決定戦が行われた。

 勝ち進んだのはペガサスに勝った保永と、カサスに勝ったライガー。新日史上初のジュニア戦士同士のメインイベントに、超満員札止め1万1500人の視線が集中する。

 誰もがライガーの優勝を信じて疑わなかったが、〝まさか〟の優勝を飾ったのは保永だった。 

 試合開始直後はライガーのペースだった。インディアンデスロック、ラクダ固め、久々に会場に姿を現したアントニオ猪木が見守る中、猪木の得意技・卍固め、コブラツイストを繰り出した。5分過ぎ、保永が反撃してプランチャー、本部席の机にパワーボムで叩きつける。

 ポスト最上段からDDTを狙ったライガーに保永が急所打ち。ジャーマン2連発で勝ちに行った保永だが、ライガーはカウント2ではね返す。すると保永は立ち上がったライガーの背後から両腕をクロスして頭越しにマットへ叩きつけた。初公開のクロスアームスープレックスホールドだ。21分54秒、保永が完勝して優勝を果たすとともに、第14代IWGPジュニア王座に就いたのだった。

保永の〝秘密兵器〟だるま式ジャーマンがさく裂(1991年4月、両国国技館)
保永の〝秘密兵器〟だるま式ジャーマンがさく裂(1991年4月、両国国技館)

 寡黙な〝職人〟と言われた男が新日ジュニアの頂点に立った。誰もが予想しなかった結末に、館内は大「保永コール」が湧き起こった。

 ユニットを組んでいたブロンド・アウトローズのスーパー・ストロング・マシン(平田淳嗣)が保永を肩車。ヒロ斎藤と後藤達俊が祝福の拍手を送ったのだった(写真)。

 あれから35年。保永は8月に71歳を迎える。

「義理の妹に頼まれた」と、保永は千葉のドッグランで犬の面倒を見ていた。

 ――91年の優勝について

 保永〝まさか〟っていうか、〝保永が!? エー〟っていうんで、最後、大歓声が起きたんじゃないですか。判官びいきっていうか。新日のジュニアはライガー絶対って思われていたから。万年、前座のオレが…。長州(力)さんのおかげもある。お世話になったからね。

 ――優勝はうれしかった

 保永 うれしいことではあったけど、やっぱりライガーみたいに頭良くないからさ。十人十色いろんな相手とやって、それなりの及第点以上の試合ができて、お客さんも納得、会社の人間も納得っていうのはなかなかできない。ずっと巡業して、最終的に結果を出すっていうのは毎回はできない。ライガーは、それなりに結果を出してたよね。

 ――職人と言われていた

 保永 海外に出て、1年ないしやってこないと、大変さっていうか経験してないと、みんな〝オレがオレが〟っていう選手ばっかりになっちゃって。

 ――全日本プロレスに行った経験も大きかった

 保永 そうですね。全日本の選手は絶対、むちゃしないし、こっちを持ち上げてくれる。

 ――プロレス生活で楽しかったこと

 保永 ブロンド(後にレイジング・スタッフに改称)やってる時が一番楽しかった。もうツーと言えばカーで。メキシコでもヒロさんとか平田選手と一緒だったし。ヒロさんはもう大恩人ですよ。

 ――現在、仕事は

 保永 これといってやってません。友達から話があれば、公共造園を手伝うぐらい。給金に〝色つけて〟くれるんですよ。

 保永はそう言って笑った。「こんなんで大丈夫?」。昔から保永は気遣いの人だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る