【越智正典 ネット裏】江藤省三は江藤慎一の弟である。兄がまるで仁王のようであるのに比べ172センチ、70キロ。1965年のドラフト3位で巨人に入団。69年、正力亨オーナーの温情で中日に移籍。
中日では二軍。お客さんが30人しかいない二軍戦で「さあー来い!」。二塁守備位置でグラブを叩いていた。夜は守りのフォーメーションを勉強。無死一塁でバントされたときに、みんなどう動いたら良いか、一死二塁で右前安打された場合は…。寮長岩本信一(明治大卒)が感心した。「省三! それをコピーしてみんなに配ってくれ」
彼はコピーをしなかった。自筆して寮長に提出した。筆意誠実である。自筆しなければ心がこもらない…と自分に言い聞かせていた。合宿所の2階の寮長室には緑茶、ほうじ茶、玄米茶、コーヒー、紅茶。「ホレ、岩本パーラーじゃ」。みんなが集ってくる。
江藤省三は42年4月29日誕生。熊本県松橋(まつばせ)で育った。町には高群逸枝の「望郷子守唄」の詩碑がある。
「益城木原山風ばかり 風じゃござらぬ汽車でござる」
父親の帰宅は遅かった。戦中、八幡製鉄から南方に派遣された。敗戦で復員すると職場はなく、他で働いていた。母親は女学校の先生。帰宅すると内職のミシンを踏む。省三は母を楽にしたいと晩ごはんをつくって待っていた。母親は、みんなが暗くなってはいけないと、食卓を囲むと歌を歌った。
兄が中日に入団すると、省三は兄と同じ熊本商業から中京商業(現中京大中京)に転校。主将を務めた。転校生が名門のキャプテンに選ばれるのは稀である。62年、慶応大文学部に合格。65年主将、1番打者でチームを引っ張った。同年12月、マニラのリサール球場で行われる第6回アジア野球選手権大会に出場する日本代表が東京六大学選抜と決まり、編成された。投手八木沢荘六(早大、ロッテ)、井出峻(東大、中日)。江藤は日本優勝のMVPに輝いた。
中日移籍から2年が過ぎた71年、キャンプから彼は猛然と食べだした。体重を増やし、相手を威圧するためだった。代打専門。「代打で好成績を挙げて、そのうちスタメンと思っているようでは打てん」と自戒。72年、代打打率は3割6厘である。
76年、現役のユニホームを脱ぐときがきた。名古屋の放送各局から解説者に誘われた。が、彼は中日球団が提示した先乗りスコアラーを選んだ。給料は4分の1。痛烈である。スコアラーの日当は安い。広島ではデパートの食堂の無料サービスの番茶で昼めしの代わりにした…。
2010年、江藤省三は「起て日はめぐる丘の上 春秋ふかめ揺ぎなき 学びの城を承け嗣ぎて…」の母校慶応大の監督に推挙された。優勝3度(10年春、11年春、14年春)。練習時のオハコは選手たちに「いいね、いいね」。そして基礎のキャッチボールの「ステップ・アンド・スロー」を説いた。
初優勝したときに神宮球場から三田への優勝行進を見に行くと、早稲田へ帰る荒川博ら稲門の男たちが敬意を表していた。彼はいまも折々に慶応義塾に招かれている。江藤省三の人柄ゆえであろう。 =敬称略=












