【正田耕三「野球の構造」(29)】初めて日本シリーズの大舞台に立ったのもプロ2年目の1986年でした。相手は黄金期を迎えていた西武。すでに引退を表明していたカープの主砲・山本浩二さんと西武の黄金ルーキー・清原和博の「新旧4番対決」としても話題を集めた頂上決戦です。

 結果から先に言うと、カープは旧広島市民球場での第1戦で引き分けてから3連勝して王手をかけながら、4連敗を喫して2年ぶりの日本一を逃しました。僕は全8試合に「7番・二塁」でスタメン起用してもらいましたが、打撃成績は24打数5安打で2割8厘。特に王手をかけて臨んだ第5戦以降は11打数1安打と封じられ、悔しい思いをしたものです。

 こうして冷静になって振り返ってみると、地に足がついていなかったのかもしれません。読者の皆さんに喜んでもらえるようなエピソードはなかったかと考えてみましたが、思い浮かんできたのは工藤公康のカーブ、渡辺久信と84年のロサンゼルス五輪でも対戦している郭泰源のストレート、強そうに見えた青い西武のビジター用ユニホーム…といった漠然としたものばかり。これは僕だけでしょうけど、リーグ優勝時に得た達成感の方が大きすぎて、日本シリーズはどこかお祭りのように感じていたのかもしれません。

 86年は僕にとって飛躍の年だったと言えます。90試合に出場し、打席数は68から244へと大幅に増えました。しかし、完全にレギュラーの座を射止めたわけではありません。オフには米ハワイへのV旅行にも連れて行ってもらいましたが、浮かれてなどいられませんでした。

 先輩選手と同様に、僕の荷物にもゴルフのキャディーバッグはありました。ただ、中身が違いました。僕のそれに入っていたのは2本のバット。当時は独身で、ビーチやショッピングに連れて行かなければならない家族が同行していたわけでもなく、ワイキキのホテルでもひたすらバットを振っていました。

 そんな僕の猛練習に悲鳴を上げていたのが同部屋だった打撃投手の佐藤玖光さんです。夜にベッドで横になっても僕がバットを振り続けるものだから「いい加減にやめてくれ。これじゃあ寝られない」と。それはそうですよね。優勝したご褒美で常夏の島に来たというのに、いつまでもバットが空を切る音を聞かされたら、誰だっていい迷惑です。

 でも、佐藤さんは僕の熱意を認めてくれていました。シーズン中でも打撃フォームで気になった点があると指摘してくれたり、率先して早出特打で投げてくれたり。打撃投手のパイオニアで50歳を過ぎても同職を務め、95年にはセ・リーグから特別表彰された佐藤さんは、僕にとって大切な恩人の一人です。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。