1992年5月22日のSWS後楽園ホール大会で後輩の仲野信市と引退試合に臨んだ後、地元の群馬県で輸入自動車販売店を始めました。93年には新団体「SPWF」(社会人プロレス連盟)を立ち上げ、仲野とプロレス復帰し、同8月21日に群馬・桐生市民体育館で旗揚げ戦を行いました。

 当時は学生プロレスを認めない風潮だったけど、名だたるレスラーでも最初は素人だろうと。FMWの初代ハヤブサ(江崎英治)や新日本プロレスの棚橋弘至も、学生プロレス出身ですからね(※)。やってること自体は変わらないと思い、あえて社会人プロレスをつくり、学生に門戸を広げました。自分自身、いろいろあってメジャー団体からはじき飛ばされてしまったので、ある意味で社会人プロレスは“リベンジ”でもありました。

 アマチュアや学生でも「みんな来たれ!」と一般公募のオーディションを開催したら、200人ほど集まりました。千葉・一宮町に道場を構えて自分はSPWFのオーナーとしてチケットを売ってマッチメークもやってリングにも上がっていました。選手に給料を払わないといけないので、チケットを売ることの方が真剣勝負でしたね。

 そして94年のある日、新日本プロレスの企画宣伝部長を務めていた永島(勝司)さんとマッチメーカーの長州(力)さんに呼び出され、仲野と都内の焼き肉屋に向かいました。当時は越中(詩郎)さんが「平成維震軍」を率いており、それに「昭和維新軍」で対抗するため、参戦してほしいとお願いされました。

 仲野に聞いたら「俺も(新日本で)やりたい」と言うので、彼をメジャー団体に出させたい気持ちもあり、オファーを受け入れました。その翌日、記者会見に出席し「俺は平成維震軍じゃない。昭和維新軍はまだまだ行けるぞ!」と名乗りを上げました。そうしたら、長州さんが突然来て「お前、この野郎! こんなところで何してるんだ。誰が呼んだんだこの野郎!」と言われて…。

小林邦昭(右)にブル ドッキングヘッドロックを決める谷津嘉章(94年2月)
小林邦昭(右)にブル ドッキングヘッドロックを決める谷津嘉章(94年2月)

 また長州さんにやられたと思いましたね。「昨日、お前が俺に頭を下げたんだろ!」と言おうと思ったけど…。プロレスラーはそんなのばかりだから嫌になってくる(苦笑)。永島さんに文句を言ったら「やっちゃん、ごめんな」と謝られましたね。

 そして同年2月24日、新日本・日本武道館大会にSPWF所属で参戦しました。ヒロ斎藤、保永昇男とタッグを組んで、越中さん&小林邦昭&小原道由と対戦して、自分がエルボードロップで小原に勝利しました。そこから約1年間、平成維震軍との抗争が続くことになりました。

 ※ 江崎は熊本商科大(現・熊本学園大)のプロレス研究会、棚橋は立命館大のプロレス同好会に在籍