SPWF(社会人プロレス連盟)時代の1994年2月、越中詩郎さんがリーダーの平成維震軍との抗争が発生し、古巣・新日本プロレスに参戦しました。この年のシングルリーグ戦「G1 CLIMAX」にもAブロックで出場して長州(力)さん、蝶野正洋、武藤敬司とも戦ったけど、2勝3敗で敗退。そして昭和維新軍と平成維震軍の抗争が1年ほどで終わると新日本からフェードアウトしました。
その後、2000年に総合格闘技(MMA)イベント「PRIDE」から参戦オファーを受けました。千葉・一宮町に構えたSPWFの道場代やトラック代、巡業用のリング代などで軍資金が必要だったところで、PRIDEからはファイトマネーとして、2試合で1000万円を提示されました。
でも、その額だと「話にならないな」と思っていたところ知り合いが交渉の間に入ってくれて。対戦報酬は2試合で1500万円という話でまとまり、オファーを引き受けることになりました。PRIDEに出て、SPWFの存在を世間に広めて、インディ団体の意地を見せたい気持ちもありましたね。
そして同年10月31日の「PRIDE.11」大阪城ホール大会に44歳で初参戦し、ゲーリー・グッドリッジと対戦しました。しかし、試合のペースをなかなかつかめず、1ラウンド(R)終盤に右アッパーを連打されてTKO負けとなりました。2、3か月前から練習を始めたけど、勝てると思っていた。ただ、44歳だからフットワークや体幹が想像よりも落ちていて…。昔と気持ちは同じだけど、体がついていきませんでした。
テークダウンできれば勝てると思ってたけど、できずに「あれ?」と思って。アマレス時代に全米選手権で対戦したことのある米国のトム・エリクソンがゲーリーの専属コーチで付いていて、タックルの切り方とかいろいろ研究されてました。仕方なくスタンドで戦っていると、どんどんパンチをもらって。結局、なんとかグラウンドの攻防まで持っていったけど、その時点で自分のエネルギーが切れてました。
01年9月24日の「PRIDE.16」大阪城ホール大会でゲーリーと再戦しましたが、あまりやる気もなく、1R3分5秒にセコンドがタオルを投入しました。ジャパンプロレス時代の86年にアマレスの全日本選手権で優勝しましたが、もし、その当時にPRIDEがあって参戦していれば、もっとやれた自信はありましたね。
これで40代でのMMA挑戦は終わりました。そして今までの営業経験を買われ、長州さんと新日本プロレスの企画宣伝部長だった永島勝司さんらによって設立された「WJプロレス」に加わることになりました。













