私は1995年から巨人にフロントとして入団し、若き日の松井秀喜と交わりました。まだ21歳で22本塁打は立派なものですが、あえて厳しい言葉を選んで伝えました。
96年シーズンを迎える前には、キャンプ初日の2月1日から打撃練習を始めるのでは遅いと指摘しました。打撃投手と個人契約を結び、1月から二軍施設で打撃練習を開始。今季はこのフォームで打つと固めてキャンプに入ればいい。松井は早速、北野明仁打撃投手と個人契約を結んで実行に移し、ヤンキースに入団するまで8年間継続しました。
96年シーズンは首位・広島に最大11・5ゲーム差をつけられながら「メークドラマ」で逆転Vを飾った年です。その大逆転劇に松井の38本塁打が貢献したことは言うまでもありません。その後も安定して成績を残し続け、NPB最終年の2002年は50本塁打、107打点、3割3分4厘。私が彼に課した打撃3部門のノルマを4番打者として見事にクリアしました。チームも優勝、日本一となり、私は松井にMLBでのプレーを進言しました。
そもそも、私と巨人とのご縁は早大監督時代の米国遠征で出会った河田弘道氏にルーツがあります。河田氏は米国の大学職員でしたが、退職後は西武の外国人選手の獲得などに尽力されていました。その後も世界陸上などで米国からの招待選手との参加交渉などにも従事。世界陸上ローマ大会では評論家時代の長嶋茂雄さんをメインリポーターに推薦し、その通訳も務めました。
当然、2人は野球の話題でも盛り上がったことでしょう。長嶋さんが日本シリーズで巨人が西武に勝てない理由を問うと、河田氏は「西武の裏にプリンスホテルの石山監督がいて石毛、金森、石井丈裕ら優秀な選手を送り込んでいるからですよ」と言ってくれたと言います。すると、長嶋さんは「やはり、石山さんなのか。ドラフトの時、名前さえ挙がらなかった藤井康雄(オリックス)や小川博文(オリックス)ら、無名の高校生をスカウトして育て、レギュラーにしてプロ球界に送り込んでいるよね」とおっしゃったそうです。
その後、河田氏は第2次長嶋政権の「影の参謀」としてチーム改革や運営に深く関わっていきます。有名な94年10月8日の中日との優勝決定戦となる最終戦。「国民的行事」と言われた一戦では長嶋監督から河田氏に「こんな時、石山さんはどんな投手の起用方をするか? 聞いてくれ」ということにもなりました。私と長嶋さんの意見は一致しており、槙原―斎藤―桑田の伝説のリレーで優勝を勝ち取ることに成功しました。
そんな背景もあり「巨人軍に来て若手を育ててほしい」と長嶋監督に熱望され、私は巨人に行ったのです。プリンスホテルの山口社長からは「堤オーナーは石山がいたからチームを持ったのだろう? その創始者がいなくなるとは何事だ」と強く引き留められました。
巨人の編成本部長時代から倉俣徹くんと一緒に立ち上げた群馬・高崎ジャイアンツは、私が退団した後も存続して27年目。今でも土日は現地で中学生を指導しています。倉俣監督率いる高崎中央ポニーは日本一も経験するチームとなりました。埼玉・小鹿野高の指導も17年目になります。
母校の静岡高、早大、プリンスと私から巣立ってくれたみんなに盛り上げてもらいながら今でも野球に関わり、その発展をお手伝いできている人生。読者の皆さまにもご愛読いただき、お礼申し上げます。












