読売新聞社社主であり、巨人軍創始者の正力松太郎さんによる「日本野球はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ」との遺訓があります。現在のように多くの日本選手がプレーするはるか以前、まずは誰かがMLBに行って活躍しなければ、情報もレベルも分からず険しい道のりになるだろうと思っていました。

 私自身、中学、高校、大学とMLBの野球が好きで書籍から知識を少しずつ積み上げていました。その内容を後に早大やプリンスホテルの監督になった時、メジャーではこうなんだぞと、選手たちに話して聞かせたものでした。世間でもMLBが話題になり始めた頃には、教え子たちから「石山監督にずっと前から大リーグの話を聞いてましたね」と言われていました。

 MLB球団がシーズンオフに来日し、日米野球を行う際には実際にチケットを購入して見に行きました。スタン・ミュージアル(カージナルス)やジミー・フォックス(アスレチックスなど)、ジョージ・ブレット(ロイヤルズ)、1974年のハンク・アーロン(MLB通算755本塁打)と王貞治さんのホームラン競争も早大の選手を連れて後楽園に見に行ったものでした。

 そういうこともあり、米球界に詳しいことは自覚していました。プリンスホテル野球部監督に復帰していた89年には都市対抗、スポニチ大会で優勝。全日本の監督としてプエルトリコで行われたインターコンチネンタル杯に出場させていただきました。

 宿舎はサンフアンの港町で風光明媚なところだと伝え聞いていましたが、とんでもない。山奥の監獄のような窓もない宿舎で電気は1日中、つきっ放しで天井では大きな扇風機がバサバサと回っていました。聞けば、そこは国営の選手強化村だったそうです。出される食事も野菜は水気がなくパサパサ。選手たちは「これじゃ食べられない」と言い出して、持参したインスタントラーメンやパックご飯を食べていました。

 そんな環境で文句を言わずモリモリ食べ、グウグウ熟睡していた社会人2年目の右腕がいました。それが若き日の野茂英雄だったんです。

「大リーグは旅だ」とも表現されます。日本で143試合を消化するよりも短い期間で162試合をこなし、長距離遠征は当たり前、時差だってあります。しかし、当時の野茂を見ていると、そんな環境の方が向いているんではないのかとすら思ったのです。

「野茂! お前さんは日本のプロ野球に行かず、大リーグに直接行きなよ」。そう話を向けると野茂は「私がですか!? やれますか?」と鳩が豆鉄砲を食らったような顔で返事してきました。さらに「以前にマッシー村上さん(元南海、ジャイアンツなど)が大リーグで投げたことがある。でも、中継ぎで投げた。お前さんは先発完投型でローテーション投手になって活躍できるよ」と加えておきました。

 後に野茂は近鉄から任意引退選手となり渡米。結果、大活躍で日米通算201勝を挙げて一世風靡しました。当時、現地取材に当たった早大出身の記者に野茂は「一番初めに『大リーグに行け』と言ってくれたのはプリンスホテルの石山監督ですよ」と言ってくれたそうですね。