1981年2月上旬、創部3年目のプリンスホテル野球部は40日間にわたるキューバ遠征に臨みました。この遠征はカストロ首相の招きによるもので国賓待遇でした。西武グループはホテル、ゴルフ場など環境事業の専門家です。同首相は自国内での観光事業発展に興味を持っており、キューバの国技である野球を架け橋にしようという考えでした。
各地区のオールスターチームと国内各地を転戦。1回戦でプリンスが勝つとカストロ首相も熱が入り、普段は白黒テレビで放映していたところを翌日からカラー放映を命令し、全試合カラーで全国放映です。これまで日本の選抜チームやプロ野球チームが遠征しても勝てなかったキューバに初来日の単独チームが連戦連勝。キューバ国内は大騒ぎとなり、球場は超満員となりました。
キューバ野球連盟のナポレオン会長が、同行していた後の全日本アマチュア野球連盟会長の山本英一郎さんに「ヤミー、石山監督に負けてくれ、と言ってくれ! こんなに負けたら私はクビになってしまう」と真剣にお願いしたそうです。山本さんは「ナポのヤツ、泣きそうな顔をして俺に頼んできた」と愉快そうに私に話してくれたことを覚えています。
反射神経が鋭いキューバ打線に対し、私はアンダースローの堀田投手をポイントのイニングに起用しました。インハイに速いボール球を投げさせ、ストライクは超スローカーブを投げさせたんです。超満員の観衆の中でキューバ選手は速い球にタイミングを取っていましたが、ストライクはスローカーブだけとあって体が突っ込んで泳いで打ってしまう。三塁、遊撃に凡ゴロの山を築いていました。
ところが、堀田は勝ち越した場面で全力の直球で勝負し、あっという間にスタンドに本塁打を打たれていました。私は「だから力を出すな! 速球と強いスイングは反発するから打球は飛ぶ、だから遅い球を打たせろ!」と。キューバを相手に好成績を収めたことで会社の期待は高まりました。私は帰路、ロサンゼルスで選手たちを集め「キューバで好成績を収めたけど、本来はキャンプをやっている時期。帰ったら夏までにしっかり練習をしてチーム力を上げるから」と話しました。
公式戦ではスポニチ大会1回戦には勝ったものの、2回戦の日本通運戦でコールド負け。会社側は怒って「チームを一軍と二軍に分けろ! 一軍は練習、二軍はホテル勤務にする。それを(堤義明)オーナーに見せるから名簿を出せ」と言われました。
私は「出しませんよ。プロ野球でもないのに同じ合宿に住みながら一方は練習、もう一方はホテル勤務なんてできません。全員一致でなければ駄目です」と言い、会社と大げんかになりました。
そしてゴタゴタして迎えた都市対抗予選で敗れてしまいました。私は予選が行われた神宮球場からチームのマネジャーのズボン、ワイシャツを借り、ユニホームから着替えて原宿本社に直行しました。プリンスホテル・山口社長に「何で負けたんだ?」と問われ、私は「全て私の責任です」と言ってプリンスホテル助監督を辞任しました。
この後、堤義明オーナーは私を西武商事に出向させ、西武グループの勉強を4年間。そして、再びプリンスホテルに全権監督として戻してくれました。












