現在のベルーナドームが、この世に生まれ出る以前の話です。私は当時としては、画期的な新球場である「西武球場」の建設計画に深く関わりました。とはいっても当時はまだ、西武グループがNPB球団を持つ未来は、誰にも知られてはいませんでした。ですが、私はこの計画にゴーサインを出した時点で国土計画の堤義明社長は、将来的にプロ球団を持つのだろうと直感していました。

 狭山丘陵を切り開いて建設した西武球場はグラウンドレベルが地上レベルよりも低い、盆地のような掘り下げ式の形状をしています。モデルとなったのは現在では大谷翔平選手が活躍するようになったロサンゼルスのドジャー・スタジアムです。

 その当時、早大野球部監督だった私は1978年秋の東京六大学リーグで4年生に金森栄治(後にプリンスホテル~西武)、3年生に岡田彰布(後に阪神)を擁する陣容で優勝を勝ち取りました。そのメンバーを率いてちょうどその頃、早大単独で米国遠征に赴きました。そこで私はドジャー・スタジアムに足を延ばし、ドジャースのピーター・オマリー会長の秘書をしていた早大野球部の先輩・アイク生原さんを訪ねていきました。この旅でドジャー・スタジアムの図面を快く譲っていただきました。

 設計者の池原研究所の池原義郎先生に依頼して本球場、第二球場、第三球場、合宿所、室内練習場を図面に配置してもらいました。そして、この球場は将来屋根を架けてもいいように設計しておいてくださいともお願いしたんです。というのも近くに狭山湖と多摩湖があり貯水池になっていますから、雨の通り道で将来プロ球団を持った時、雨天中止が多発することを懸念したからです。

 そして78年10月12日のことでした。国土計画がクラウンライター・ライオンズを買収し本拠地を福岡から埼玉・所沢に移すことを発表しました。折しも新球場の建設の真っ最中でした。新球場の建設構想を初めて聞く段階で抱いた私の勘は的中しました。「やっぱり買ったな…」。心の声でこうつぶやいていました。

 当初は新球場を建設しても、NPBのチームを誘致して公式戦を開催する“貸し球場”で運営する予定でした。ただ、自前のチームがあった方が利益率は上がります。そういった背景もありクラウンライター・ライオンズを買収し西武ライオンズが誕生することになったのです。

 私は所沢の新球場の建設計画の遂行に奔走しながら、早大監督としては最後のシーズンとなる78年秋の東京六大学リーグで優勝。それを置き土産に同職を退任させていただきました。さて、私の次の役目は?――。堤さんから受けた、早大の選手を引き連れて社会人野球のチームをつくれという勅命、つまりプリンスホテル野球部の創設へと話は移ります。

 卒業予定の4年生だけでチームを編成することは、もちろんできず3年生以下のメンバーを中退させて、プリンスホテルで丸抱えすることもできる話ではありません。「では3年がかりでチームをつくろう」という構想を堤さんと練っていくことになります。

 私はプリンスホテル野球部助監督という肩書を与えられたものの、事実上は現場全てのマネジメントを任せられた密使として奔走することになります。