私は1978年秋の東京六大学野球リーグ優勝を置き土産に早大監督を退任させていただきました。早大監督を務めながら「西武ライオンズ球場」の建設計画に参画。多忙ながらも充実していました。そして私の次の役目は社会人野球のプリンスホテルを立ち上げるというミッションです。

 その昔、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグが来日して日本にもプロ野球をつくろうという機運になった頃、東京六大学野球が盛んでした。プロ野球はなかった時代、早大が三原脩選手を野球部に招き入れて、他の有力選手たちに「あの三原さんが入るのだったら自分たちも入ろう」という流れになった事実からヒントを得て、スカウティングに奔走しました。

 まずは早大監督時代に大学選手権の決勝戦で戦い、懇意になった駒大・太田誠監督に池袋のサンシャイン60の最上階60階で堤義明オーナーに会っていただきました。そして、プリンスホテルの立ち上げの話をし、2年後のプロ入りを約束した上で目玉となる石毛宏典選手を欲しいとお願いしました。石毛が決まれば他の選手たちにもプリンスホテルが社会人チームを結成する事実が知れ渡るとともに、世間での認知度も高まります。

 投手陣に関しては右の本格派、左の本格派に加えアンダースローの投手という3タイプの投手を揃える理想を持ちつつスカウティングを継続。左腕は日米大学野球選手権で大活躍し日本のプロ野球も獲得に乗り出したハワイ大学・デレク・タツノ、アンダースローは明大の鹿取義隆(巨人にドラフト外で入団)、右の本格派はクラウンライターのドラフト指名を拒否し米国の南カリフォルニア大学に行っている江川卓(阪神入りし巨人にトレード移籍)にも声をかけました。

 サンディエゴ・パドレスに2位指名されたタツノは79年7月にプリンスホテルを表明してくれました。このニュースは球界に波紋を起こしました。この際には堤オーナーから連絡が入り「大リーグに指名されたタツノを(当時あった紳士協定を破り)獲ったことでMLBが西武に選手をくれないかもしれない。そこで手を打ったから心配するな」と。

 私がどうしてですかと尋ねたところ、「米国から獲れないならキューバから獲ればいい。大洋漁業(大洋ホエールズ親会社)を通じキューバからエビを買って、それをプリンスホテルで使うから心配するな」と言うんです。米国と国交を断絶していたキューバにはMLBでも通用する逸材がゴロゴロしていました。堤オーナーの危機管理能力の高さと決断力のすごさに敬服しましたね。やはりお父さんの康次郎さんから帝王学を受け、西武グループの総帥に選ばれたわけだと納得しました。

 第1期メンバーとしては駒大・石毛、専大・中尾孝義、慶大・堀場秀孝、教え子の早大・金森栄治らがプリンスホテルに結集。合宿所ではプリンスホテルの専門料理人が腕を振るうなど、プロでもうらやむような環境でした。

 創部年は東京都予選の第3代表決定戦で敗退するも、2年目には都市対抗に初出場も果たしました。そして3年目の81年は2月上旬に40日間にも及ぶキューバ遠征を行いました。同国のカストロ首相からの招きによるもので、国賓待遇でした。