私は早大を卒業後、社会人の日本石油でプレーした後、社業も務めて早大監督に就任、と文字にしてしまえば自然に思えるでしょう。ただ、この経緯は一筋縄にはいきませんでした。私から見て先代の早大監督だった石井藤吉郎監督からは実は3度、監督の誘いを受けています。

 1回目は大学を卒業して日石に入社して2年目の24歳の時でした。2回目は社会人野球の現役を退いた7年目でしたが、その時にはお断りさせていただいております。ですが、さすがに恩師からの誘いを3度にわたって断ることができず、そのタイミングで日石を退社しました。その際に早大・樫山欽四郎野球部長と石井監督が早大OBで国土計画社長の堤義明さんに引き合わせてくれたんです。

 日石の社長に対しては当時の石井監督から早大OBを通じて、日石からの出向扱いで早大の監督にできないものかと何度も要請していただきました。ただ、当時の日石の社長は「石山を出してしまうと、他校からも頼まれたら断れなくなるから、お前さんには日石の監督をやってほしい。もし(早大に)行くのだったら会社を辞めなければならないよ」と言われていたのです。

 そういった経緯もあり、私が早大監督を辞めた後の生活のことまでを考えてくれていた石井監督、樫山部長が堤さんに引き合わせてくれたのです。こういった事実は今後の早大の監督選びに関し、OBたちの参考にもなると思いますから、あえて記述させてもらいました。

 現実は複雑です。国土計画の社員の皆さんは私を早大野球部監督と思っています。そうすると所沢の新球場建設にあたってはなぜ、堤さんが私に意見を求めるのかという気持ちにもなることだったでしょう。さらには、私は堤さんにも忖度なく直言をしてしまうので、国土計画の社員から見れば「生意気なヤツだ」と思われてしまうこともあったはずです。

 しかし、事情はどうあれ、堤さんから将来の西武ライオンズ球場の建設に関して助言を求められる立場として全力を尽くす覚悟でした。国土計画の秘書課から「堤社長が西武・狭山湖駅に来るようにと申しております」と連絡があり、私は高田馬場駅から西武新宿線に乗り現地にはせ参じました。私は初めて行ったあの場所でその近辺を歩きました。空からヘリコプターの爆音が聞こえ、そちらの方向を見ると堤さんは自家用ヘリから降り立ってきました。

 その頃の軟式球場「西武園球場」は今のベルーナドームと比べると中堅とホームが逆方向に配置されていました。堤さんから「ここに球場を造ろうと思うがどう思うか?」と聞かれ「センターとホームを逆にした方がいいと思います」と答えました。「どうしてだ?」という質問に「逆にするとスタンドからユネスコ村も見えるし、秩父の山も見える。観客にとって景色のいいところで野球観戦ができると思います」と応じました。こういった問答がしばらく続きました。