私は昭和17年(1942年)、静岡市の南、駿河湾に面する安居(あご)という集落で生を受けました。物心がついた頃には敗戦直後で物不足の時代でした。それでも豊かな自然に囲まれ元気いっぱいな子供として、近所の子供たち十数人を引き連れて遊ぶガキ大将的な存在だったと思います。弱い者イジメは絶対にしませんでした。

 地元の久能小3年時、祖父母から布製のグラブを私と弟に贈ってもらったことが野球との出会いです。村にもグラブを持っている子供はいませんでした。大人でさえ貴重なものでした。そのグラブを使って海岸で三角ベースに興じ、ボールが海に飛び込めば泳いで取りに行く。そんな時代です。

 グラブが珍しいということもあり、年上の大人も興味を持って一緒にキャッチボールをしてくれました。相手が大人なので自然に肩が強くなりました。小6の時には3番・投手でした。高松中に進み野球部に入部すると1年生だけで80人、全学年で150人の大所帯です。1年生は球拾いばかりでつまらなく、夏休みの練習には出席しませんでした。

 ただ、たまたま登校したタイミングで野球部の監督に「練習に出てこいよ」と誘ってもらいました。秋の新人戦では三塁に抜てきされ試合出場するも、相手ベンチのやじに動揺し5連続エラー。もう、試合では使ってもらえないと意気消沈していると、監督は翌日に「今日からショートだ」と言って使ってくれました。

 そこから猛練習で中2、中3と連続で県大会を優勝し、遊撃でベストナインに選出してもらいました。その後、静岡高に進むと1年秋から遊撃のレギュラーとなりました。自宅近くの久能山東照宮には1159段の石段がありました。昭和7年(1932年)、ロス五輪の陸上・三段跳びで金メダリストとなった南部忠平さんが「いいトレーニング場。なぜここからオリンピック選手が出ないのか」と言ったと聞き、私は毎朝その石段を上り下りし鍛錬しました。

 そのかいもあってか、高3の昭和35年(1960年)には甲子園に春夏連続出場。春は1回戦で京都の平安に延長10回の末に敗れましたが、夏は柴田勲(後に巨人)率いる法政二高に次ぐ準優勝という結果を残すことができました。

 その後は早大に進み4年春(64年)の東京六大学リーグで優勝、大学選手権では準優勝を経験しました。その後は社会人野球の日本石油に入団。67年の都市対抗優勝を経験させてもらい、主将や助監督を経て73年に8年間の現役生活を終えました。

 同社では東京支店の営業マンとしても社業に携わっていましたが、程なくして早大の恩師でもあった当時の石井藤吉郎監督から、次期監督のお誘いを受けました。この際に早大・樫山欽四郎野球部長が早大OBの国土計画・堤義明さんに引き合わせてくれました。あの西武グループ総帥の堤さんです。堤さんは私が生活の心配なく早大野球部監督として活動できるよう、国土計画の出向社員として迎え入れてくれたんです。

 ここから私の野球人生は目まぐるしい変化を遂げていくことになります。