静岡高の3年時、1960年には春夏の甲子園を経験。夏は準優勝という結果を残すことができました。地元に凱旋した時に静岡駅前がパレード状態でした。われわれはボンネット型のバスに乗って大勢の人々に祝福されながら、帰路に就きました。

 その後は早大、日本石油と進んで野球人生が加速。現役引退後は社業に専念するはずでしたが、早大監督に誘っていただき岐路に立たされました。私は日本石油の社員であり、早大の職員でも教員でもありませんでした。当時の生活を維持したままで早大監督を引き受けるには、いくつかのハードルが存在しました。

 そうすると野球部長の樫山欽四郎さんが、早大出身で当時は国土計画の社長だった堤義明さんの先輩というご縁で「石山の早大へのご奉公を終えたら国土計画で迎え入れてくれないか」と相談してくれたのです。そうしたところ、堤さんは私を即決で国土計画に入社させることを決めたばかりか、同社からの出向という形で早大野球部の指揮を執れるよう便宜を図ってくださいました。

 その当時、周りの皆さんにこういった事実を公表するわけではありませんでしたから、私が国土計画の社員でありながら早大野球部監督を務めている事実を知る人は限定的でした。まして、国土計画の社員の方々は私が同僚であることは分かっていなかったはずです。

 74年から私は特殊な形で早大野球部監督を務めることとなり、就任早々の春の六大学リーグで優勝してしまいます。さらに大学選手権も制し日本一になってしまうんです。私は国土計画の社員ですから、堤さんのもとへはシーズン前後の報告などで定期的に訪問します。原宿にあった本社にはよく通いました。

 堤さんは父・康次郎さんの遺訓である「プロ野球には手を出すな」という言葉を守っていました。選手の年俸はもちろん、球団という大きな組織を動かすわけですから多大な経費が必要です。プロ野球チームのオーナーとなれば道楽となりがちで、ヘタに手を出せば本懐である事業の発展を損ねかねないということだったんじゃないでしょうか。

 とはいえ、私が堤さんの前で熱を帯びて野球を語るわけですから、どんどん興味を持ち始めているなという手応えのようなものは感じていました。堤さんには「早大の監督から(出向元の国土計画に)帰ってくる時には早稲田の選手を引き連れてチームをつくれ」と言われるようになっていきました。これはあくまで、アマチュアの話です。つまり、後のプリンスホテルということになります。

 しかし、その後の未来を知る皆さんは当然、ご存じですよね。堤さんは78年にクラウンライター・ライオンズを買収することになるのです。源流には福岡の西鉄ライオンズがあり、今現在は皆さんがご覧になっている西武ライオンズが誕生することになります。

 私は早大野球部監督という立場にありながら、社会人野球チームのプリンスホテル、プロ野球チームの西武ライオンズの立ち上げに深く関わっていくことになるのです。