1985年から94年までプリンスホテルの監督を務め、95年からNPBの巨人でお世話になりました。早大野球部、プリンスホテル、西武ライオンズにゆかりがある私がなぜ?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、そこは別の機会に説明させていただきます。

 私は第2次政権の長嶋茂雄監督からお誘いを受け、95年から巨人の編成本部長補佐兼二軍統括ディレクターに就任しました。そこで思い出深い出会いがありました。まだ高卒3年目、21歳の松井秀喜です。私は関東エリアでイースタン・リーグの試合がある日は、東京ドームのナイターとダブルヘッダーで視察していました。ある試合で右翼守備に就く松井のスローイングが気になったんです。モーションが小さく、捕手のような投げ方。外野からの遠投であれば、イチローのように大きく腕を振って投げればいいのでは?という印象を持ちました。

 シーズンが終わると、高知で行われていた教育リーグ・黒潮リーグに他の若手と一緒に松井も派遣されました。私はよみうりランドの二軍施設にいた打撃投手に8ミリ映写機を持参するよう通達。松井のスローイングを正面、真後ろ、背中から撮って見せたんです。

「将来、君は巨人軍の4番打者にならなければならない。今の投げ方のままでは右ヒジを壊して打撃に影響を与えかねない。だからスローイングを修正しよう」と提案しました。映像を見た松井は「僕ってこんなにヒジが低かったんですか」と驚いていました。二軍選手たちは黒潮リーグの試合後、市内のトレーニングセンターに行くことを義務付けられており、そこに松井も現れました。

 しかし、あっという間にトレーニング場からいなくなるではないですか。私は歩いて捜し回ったのですが、実は松井はプールに入って裸で黙々とシャドウスローをしていたんです。納得すれば自分で努力する男なんだな。その姿を見て私はピンときました。

 当時、シェーン・マック(92年にツインズで打率3割1分5厘、16本塁打、26盗塁)が中堅だったこともあり、松井は入団から右翼を守っていました。私は当時の松本匡史二軍監督に、松井の中堅での起用とキャプテン就任を進言しました。

 松井を呼び「センターから打者を見ると外角球を強引に引っ張ったり、ボール球に手を出したりする打者がいるから、君の打撃にいい影響を与えることになるよ」と助言。97年からヤンキースに行く2002年まで、松井は巨人の中堅をずっと守り、ベストナインを取り続ける選手となりました。

 宿舎だったホテルサンルート高知の私の部屋に呼んでは「秀喜、今シーズン何本ホームランを打った?」と聞きました。もちろん、成績は知っていましたが、松井は「22本です」。続けて私は大げさに「この体でたった22本。私の教え子でオリックスの藤井康雄は37本、同じく近鉄の石井浩郎は33本で111打点の上に3割打者。2人に比べたら君は体も大きいし、素質も上。君は40本から45本、打点は100以上、打率は3割以上が最低ラインだ。そうでなければ自分の素質に見合った成績でないと認識した方がいい」と言いました。

 次回も松井の話を続けましょう。