【プロレス蔵出し写真館】今からちょうど55年前、1971年(昭和46年)1月4日、日本プロレスの「新春チャンピオンS」が東京・台東体育館で開幕した。「まだ見ぬ強豪」として初来日したのが〝踏みつぶし屋〟ザ・ストンパー(=モンゴリアン・ストンパー)だった。

 ストンパーはリッキー・ハンターとタッグを組み、アントニオ猪木&グレート小鹿組と60分3本勝負で対戦。1本目は猪木がハンターに〝秘密兵器〟アトミックドロップを初公開して先制した。ところがストンパーは2本目を猪木、決勝の3本目は小鹿を押さえ込み、1人で2フォールを連取して観客を驚かせた。

 小鹿が「シューズになにか入っているぞ。鉛じゃないか」とアピールするほど、ストンパーのアゴ、胸へのストンピングは強烈なものだった。

 7日にはエース、ジャイアント馬場のインターナショナル王座に挑戦して1―1から両者リングアウトで引き分けるという殊勲を挙げ、2月4日の大田区大会で猪木とのシングルマッチも実現した。

 試合は1―1からレフェリーのユセフ・トルコに手を出した猪木が反則負けを取られ、ストンパーが勝利した。

 さて、ストンパーが猪木の海外武者修行時代、タッグパートナーとしてコンビを組んでいたという事実は、ずいぶん後から知った。

 64年(昭和39年)6月5日付の東スポ1面と2面でUPI通信の特電で、米カンザス州カンザスシティー・ニューオーデトリアムで行われたトーキョー・トムこと猪木とストンパーのタッグマッチを詳報している。

 2人はパット・オコーナー&サニー・マイヤース組と対戦。オコーナーは元NWA世界ヘビー級王者でマイヤースはカンザス州王者。地元のベビーフェースコンビを向こうに回し、猪木は奮闘した。マイヤースに空手チョップで攻め込む猪木をエプロンサイドのストンパーがフォローした(写真)。

 試合は1―1からの3本目、猪木が反則を取られ敗戦した。

 猪木は、当時、多くの日本人レスラーがそうだったようにハダシでファイトしていた。紫のハッピにゲタを履いてリングに登場。ハッピの背中には日本刀が染め抜いてあった。カナダ出身のストンパーはモンゴル人を名乗り、猪木とは同じ東洋人コンビという設定。この日がコンビを結成して3試合目だった。

 猪木は辞書を片手にカンザス州のカンザスシティー、トピカ、ウイチタ、ときにオクラホマを転戦。当時21歳の猪木は女性ファンの間で圧倒的人気を誇っていると紙面では伝えている。

マイクコードでストンパー(手前)の首を絞める猪木(1971年2月、大田区体育館)
マイクコードでストンパー(手前)の首を絞める猪木(1971年2月、大田区体育館)

 猪木は後に、自伝でストンパーとのやりとりを明かしていて、試合のない日曜日にはストンパーの自宅に招かれていた。

 猪木は「彼の家には見たことのないほど巨大な冷蔵庫があった。それを開けたら、ものすごい量の人参がぎっしり入っていた。ストンパーはその人参を取り出してはジューサーにかけ人参ジュースを作る。それを特大のジョッキでごちそうしてくれるのだ。その気持ちがうれしくて、私はジョッキで6杯飲んだ(抜粋)」と記述している。

 68年(昭和43年)の専門誌には猪木の食生活、1日のメニューが掲載されていた。朝は必ず人参ジュースを飲み、飽きないように量と飲み方が工夫されていた。ジュースというよりは、今でいうスムージーだろうか。

 猪木は「最初は青臭くて飲めなかったが、いまではスタミナ作りには欠かせないエネルギー源」と語っていた。

 さて、この人参ジュースには思わぬ〝効能〟があったという。夜の方でも元気になりすぎて困ったと告白した。

 猪木の名言「元気があれば何でもできる」。その源は、ストンパーが飲ませてくれた人参ジュースだったのかもしれない(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る