2008年に参戦した全日本プロレスの「チャンピオン・カーニバル」は転機となるシリーズでした。アウェーというシチュエーションでは「ブーイングをもらうべきなんだ」「俺はカッコイイところを見せなくていいんだ」という気付きがあって、新たな境地に達したというか。印象に残っているのは4月8日後楽園大会の川田(利明)さんとの公式戦。めちゃめちゃキツかったんですよ。試合のリズムが違うというか、全日本のスタイルを感じましたね。
決勝戦(4月9日、後楽園)の相手は諏訪魔選手でした。前日の川田さんとの試合で左ヒザを痛めていて、痛み止めを2~3本打って、階段も上がれない状態だったんです。今思えば、よく走ったなって。勝てはしなかったけど、何とか試合を盛り上げられて自信につながった試合でした。
文字通り自分の出世シリーズになったんですが、その代償は大きかったですね。めちゃくちゃ痛くて筋挫傷の検査に行ったら、01年の時点で左ヒザの前十字靱帯が断裂していたことも判明し、長期欠場を余儀なくされてしまいました。
8月の「G1クライマックス」で復帰を果たしたんですが、まだ万全じゃなかったのか、この年は2勝4敗でAブロック最下位という成績に終わりました。こうした状況もあってスランプ脱出のために10月から米国・TNA遠征に出発することになるんです。
このTNA遠征中に当時の菅林(直樹)社長が米国に来て、全日本の武藤(敬司)さんに流出していたIWGPヘビー級王座への挑戦を打診されました。米国に来たばかりだからという理由で断ったんですが、いま新日本の社長になって考えると、経費をかけてわざわざ(フロリダ州)タンパまで来てくれたのに…とは思いますね。ただ俺としては若い時、海外遠征に行っていなかったので、新しい環境に身を置いてみたいという気持ちがあったんです。
結果的に菅林さんの2回目の打診を引き受けて、09年1月4日東京ドーム大会で武藤さんに挑戦することが決まりました。武藤さんは08年の4月から古巣である新日本の頂点に君臨していました。昔から新日本を見てるファンの方にとっては永遠のベビーフェースなので、会場人気が外敵王者とは思えないくらい高かったんですよね。
試合が決まってからは、ずっと背伸びしてました。記者会見の時も「何か言わなきゃ!」みたいな感じで。プロレス界の格で言えば武藤さんが明らかに上なんですが、それを崩さないと東京ドームのメインがチャレンジマッチの様相を呈してしまう。何とかインパクトを出そうと必死に発言や振る舞いで対抗して、そしていよいよキャリア最大の一戦を迎えました。















