デビューして1年足らずの2000年9月9日栃木大会でアクシデントが待っていました。試合中に左手を骨折し、欠場に追い込まれてしまったんです。

 中手骨という骨を折ってしまって、安静にしていれば1か月でくっついて2か月で復帰できるケガだったんですが、焦っていたんでしょうね。治る前にトレーニングで負荷をかけてしまって、またバキッと…。二次骨折というのはかなり厄介で治りが遅く、結果的に7か月も欠場を余儀なくされました。

 もちろん、めちゃめちゃ焦ったんですが、せっかく休んだので何か変わった形で復帰したいなと思って、01年4月19日後楽園大会での復帰戦ではタイツを赤に変えました。コスチュームの色を変えるのは先輩に黙っていたので、試合直前までアンダータイツ一丁でいて、先輩が見えないところでサッとはいて入場しました。1回出てしまえば既成事実になるのでね。

 ヤングライオンは黒のショートタイツが伝統で、海外に武者修行に行って帰ってきた時に変えるのが通常の流れですよね。だから勝手にゲリラコスチュームチェンジしてヤングライオン卒業の証しにしてしまったと。あそこで黒パンで戻っても、またみんなと横並びで始まるだけだったので、一日も早く上で試合を組んでもらいたいというのがありましたね。

 リングに復帰すると、同期のKENSOさんとタナケンタッグを結成しました。このころには道場での部屋がKENSOさんとの2人部屋になっていて、夜な夜なプロレス観について話していたんです。ある日「タナ、2人でタッグやろうよ。(当時の現場監督の)長州(力)さんに直談判しようぜ」と言われて。最初は「ええっ!」ってなったんですけど、意を決して道場で長州さんに「僕ら2人タッグでやらせてください!」って言ったんです。

現場監督を務めた長州力(1995年)
現場監督を務めた長州力(1995年)

 長州さんは「お前らハリボテだぞ」と全然相手にされませんでした。見た目だけタッグチームっぽくしても技術も経験も何もないぞ、という意味だったと思うんですけど、この直訴が功を奏してタッグの試合が組まれるようになりました。

 KENSOさんとはお互いに足りないところを補い合ってっていうところもあったんですけど、若い世代のタッグで期待感を生み出せていたのはありましたね。この年の「G1タッグリーグ(現ワールドタッグリーグ)」にも出場できましたし、結果的に海外武者修行に出ることなくステップアップしていくことができました。

 KENSOさんは俺の知らない酒のたしなみ方や盛り上げ方を知っていて、ウマが合いましたね。その一方、当時の新日本マットは混迷の道をたどっていたんです――。