【新日本プロレスの“100年に一人の逸材”棚橋弘至「百面百臂」(1)】新日本プロレスの“100年に一人の逸材”棚橋弘至の新連載「百面百臂」がスタート。2000年代に暗黒時代を迎えていた老舗団体を復活させた立役者でもあり、23年12月からは選手兼代表取締役として団体をけん引した。来年1月4日東京ドーム大会で現役引退を控える希代の名レスラーが、波瀾万丈の半生を振り返る――。
1976年11月13日に岐阜県大垣市で生まれました。「弘」だけで「ひろし」と読めるんですけど、電力会社に勤めていた父(貞之さん)がアントニオ猪木さんのファンで「猪木寛至」の「至」の1文字が入ったと。父はずっと隠してたんですけど、俺が入門テストに受かったか、デビューしたかのタイミングで教えてもらったんです。
こうして振り返ると良い話ですけど、名付けっていうのは“のろい”だなとも思いましたね。本当にその通りの人生になっちゃって…今や猪木さんと同じ新日本プロレスの社長に至りましたから。
弟と妹がいて、3人きょうだいの長男。小さいころから運動神経も良くて勉強もできたんですけど、人前で何かをやるのは苦手で照れ屋でしたね。よく近所の川沿いで遊んでいて、友達は多かったと思います。父が好きだった影響から中日ドラゴンズのファンになって、小さいころはプロ野球選手になりたかったので、小学校5年生から地元野球団に入って中学校でも3年間野球部でした。
野球では小学校の時からずっとライトを守ってましたね。ライトで8番のいわゆる「ライパチ」で、ギリギリのレギュラーか補欠の間をさまよってました。
野球をやっていたので丸坊主だったんですけど、中学校3年生の時、急にモテ期が来たんです。運動会で応援団をやっていたのもあって、後輩女子に割と告白されるようになって…。でも、そもそも応援団に入ったキッカケというのが、初恋の子が応援団をやっていたから「俺も入ろう」っていう不純な動機で。
その子にはね~…3回告白して3回フラれたんですよ。中1、中2、中3と満遍なく。好きだったんで諦めきれなくて、毎年のように「そろそろいいかな」と思ってはフラれるという。で、その初恋の子というのが、今の奥さんなんですけどね。
当時は付き合うことができず、フラれた理由を聞いたら「好きな人がいるから」と言われて「誰?」って聞いたら男闘呼組の成田昭次だったので「そりゃ勝てん」って。そんなことがあったのでしばらく男闘呼組にはトラウマがあって、テレビで見るたびに闘魂が湧いてました。結果的にプロレスラーとしてデビュー後、地元に帰った時にバッタリ会って付き合うことになるという、なかなかチャラ男っぽくないエピソードですね。
高校生になっても野球は続けましたが、そこまで上達しなかったですね。そんな中、俺の人生を変えるプロレスとの出会いが高校2年生の時に待っていました。














