【中島輝士 怪物テルシー物語(77)】2011年、私は海外のプロ野球で指導者という初めての経験をすることになります。台湾プロ野球(CPBL)の統一セブンイレブン・ライオンズの打撃コーチに就任です。通訳もつけてくれました。チームには日本語を話せるスタッフが3人いて、現地での仕事をサポートしてくれました。袁嘉迪(エン・チャティ)といって、のちに西武ライオンズで通訳になる人材でしたね。
ただ、野球の指導というのは言葉じゃないんですよ。日本語が通じる人間同士であれば言語で細かいニュアンスを伝えることができます。ざっくりした表現で「今の段階なら、打球を打ち上げていても大丈夫だから、そのフォームで打ってみよう」とか言っても、普段のコミュニケーションを取っていれば真意が伝わるはずなんです。
しかし、国や文化や言語が違うとそうはいきません。通訳がどれだけ正確に訳していてくれたとしても細かいニュアンスまでは伝わらないことがままあります。もう、この選手の立場になって親身になって指導しないと心が伝わらない、技術が身につかない。これは本当に勉強になりました。
日本にいた時からそうすればいいって話なのですが、台湾での指導者経験を経てものの見方が変わりました。それまで年間5本塁打ほどの選手が20本に届く成績を残すなど、成績にも反映されると、さらに意欲も湧いてきます。私自身、ホテルに帰っても単身赴任でやることもないですから、打撃指導に関してとことん考えて選手一人ひとりに対して本当に親身になって考えた期間でした。
コーチってこういうことだな、指導じゃなくてなんか一緒になってやるもんだなと。私自身も非常に学びになりましたし、そういった中で信頼関係が生まれたというのはすてきな経験でした。コーチという仕事は野球の技術を教えるものだと思っていましたが、選手たちと一緒にやっていくことがコーチなんだなと。
言葉が通じないからこそ心が通じ合える。台湾野球の指導者として1年目で打撃コーチとしてのコーチングのヒントを得た気持ちになることができました。
もし、日本に帰国してから指導者として活動することになれば、こういう気持ちでやらなきゃいけないなと、そういう感情になりました。スカウトを経て海外でユニホームを着る立場となって、台湾では49歳、50歳、51歳という年齢を過ごしました。そこで人間としても大きく変わりました。それは間違いない事実です。
チームもシーズン優勝を果たして充実した時間を過ごすことができました。その結果、台湾で開催されたアジアシリーズにも出場することができ日本、韓国、オーストラリアのチームと戦うという経験を積むこともできました。
高校時代に明治神宮大会で優勝を経験し、日本代表として柳川高の一員で遠征した台湾。その土地で、50歳を迎えるタイミングでプロ野球チームのコーチとして戻ってくる未来なんて想像すらしていませんでした。ご縁ある土地、台湾での経験もかけがえのないものです。












