【プロレス蔵出し写真館】10日から15日まで行われた「ストロング小林展」第2弾は、1370人の来場者で盛況のうちに幕を閉じた。一方、恒例ともなった「超・燃える闘魂アントニオ猪木展」は4日から13日まで熊本で開催され前田日明、蝶野正洋、藤波辰爾のトークショーで盛り上がった。
かつてのビッグネームは、まだまだオールドファンの記憶に残っている。猪木と小林は1974年(昭和49年)3月19日、蔵前国技館で〝昭和の巌流島〟と銘打たれた大勝負を展開した。
さらにこの前年、新日本プロレスが行ったビッグマッチが「世界最強タッグ戦」だ。
今から52年前、73年9月11日に銀座・東急ホテルで会見した猪木の発表に胸を躍らせた。〝黄金コンビ〟猪木&坂口征二組 vs〝鉄人〟ルー・テーズ&〝神様〟カール・ゴッチ組の〝夢の対決〟が決定し、10月14日に「世界最強タッグ戦」として開催することが明かされた。
プロレスライターの流智美さんは「東スポの桜井(康雄)さんの発案です。『5月ぐらいの段階で、井上(博)社長に上申して決まった』と言ってました」と証言する。
この試合を企画、主催したのは実は、東京スポーツだった。プロレス界の機運を高めるために、新日プロの「売り興行」をメディアとして初めて東スポが買ったもの。テーズ&ゴッチのギャラ、ホテル代、飛行機代(ファーストクラス)、会場使用料を支払った。
73年は激動の年だった。当時、日本プロレスのエースだった坂口と猪木は、NET(後のテレビ朝日)の意向を受けて会食し、2月8日に京王プラザホテルで会見。日プロと新日プロの合併を発表した。この報道にプロレスファンは狂喜するが、後日、大木金太郎の反対でご破算となってしまう。やむなく、坂口は小沢正志(後のキラー・カーン)、大城大五郎、木村聖裔(後の健悟)、レフェリーの田中米太郎を連れて新日プロに移籍した(直後に日プロは崩壊)。
新日プロの1周年大会が行われた3月30日、大田区体育館であいさつした坂口は、メインイベントに背広姿で助っ人に飛び出し、外国人勢を蹴散らして猪木と柴田勝久を救出した。
黄金コンビは4月20日、蔵前でジャン・ウィルキンス&マヌエル・ソト組を2-0のストレートで下し、復活第1戦を飾ったが、二線級を相手にしての勝利に物足りなさが残った。
流さんは「(東スポは)4月の蔵前でテーズ&ゴッチのタッグを企画したが、テーズがダラ・シンと戦うためインドに遠征していてアメリカにいなかった。だから2回目の蔵前で勝負をかけた。あのころは、とにかく一刻も早く大きなことをやろうというムードが充満してた。毎週毎週、しょぼい外人ばかりで。山田(隆)さんも、テーズの電話番号を聞くためにNWA本部に電話したり…」と回想する。
「(ジャイアント)馬場さんは、会場で桜井さんを見つけると『お宅の山田さんは何? 新日本プロレスのために働いているわけ?』って問い詰めた。世界最強タッグ戦を実現するために、全日本の解説をやってた山田さんが(本来の)東スポのために動かなければならなくなった」(流さん)
両記者は、桜井康雄が新日プロ担当(後にテレビ朝日の解説)、山田隆が全日プロ担当(日本テレビの解説)だった。
さて、10月12日、ゴッチとテーズは無事に来日を果たし、翌13日に猪木と坂口とは別々にオープンカーに乗り込み、六本木から銀座を経由して新宿までパレードを行った。そして、伊勢丹百貨店屋上で約3000人のファンを前に公開練習を披露し、チャリティーサイン会もこなした。
決戦当日、蔵前国技館は1万2000人の観衆で埋まった。試合は90分3本勝負。ロサンゼルスの名物レフェリー、レッドシューズ・ズーガンが裁く。プロレスで初の航空自衛隊音楽隊の日米国歌吹奏が行われ、館内は最高潮に達した。
ゴングが鳴るとテーズは例によって左肩を落とす、いつものポーズで坂口と対峙。坂口がテーズ、猪木はゴッチとの戦いが中心となった。カットプレーや合体、連係技がないクリーンな展開で、1本目はテーズが坂口に高速バックドロップを決めて3カウント。
2本目は猪木がテーズにドロップキックを見舞い、坂口にタッチ。坂口は豪快なアトミックドロップを炸裂させ、1-1のタイに持ち込む。
3本目、猪木にキーロックを決められたゴッチが片手1本で持ち上げてコーナーポストまで運ぶという〝名シーン〟を披露して観客を沸かすも、最後は、猪木がゴッチに新兵器のジャパニーズレッグロールクラッチ(回転足折り固め)を決め、タッグとはいえ師匠ゴッチから初のピンフォール勝ちを奪った(写真)。日本組の勝利に観客は熱狂し、興行も大成功に終わった。
流さんは「テーズは10月8日のメンフィス(米テネシー州)でジャック・ブリスコのNWA王座に挑戦して右肩を脱臼して、(試合を)キャンセルしようかと思うくらいひどかった。それを隠してやったんで坂口のコブラツイストは『死ぬほど痛かった。あの試合は死ぬ思いだった』って、よく言ってました」と明かし「あの試合は桜井さんの最高傑作だと思いますよ」と断言した(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













