【プロレス蔵出し写真館】今から54年前の1969年(昭和44年)9月12日、この日、日本プロレス史に残る歴史的な出来事があった。
ジャイアント馬場が米ロサンゼルス・オリンピックオーデトリアムで海外で初のインターナショナル王座防衛戦を行ったのだ。
対戦相手に予定されていたのはゴリラ・モンスーンだったが、練習中に左足首を負傷し、急きょ〝アラビアの怪人〟ザ・シークに変更された。
さて、試合当日の試合前、会場では〝異例〟の光景が見られた。馬場を始め、この日出場する選手が次々とリング上がって行く。少し遅れて、シークまでやってきた。
なんとベビーフェースとヒールが交じって集合写真の撮影が始まったのだ。人数が多すぎて芳本栄特派員のカメラに入り切らない選手もいたほど(写真)。
前列右端に名物レフェリーのレッドシューズ・ズーガンも入り、ロッキー・モンテロ、〝ラバーマン〟ジョニー・ウォーカー、デール・ルイス、ダニー・ホッジ、ベン・ジャスティス(※マスクを脱いでいた)、フランシスコ・フローレス、マグニフィセント・モーリス、マイク・リッカー(別名マイク・ヨーク)、レイ・ゴードン。後列右からブル・ラモス、リップ・ホーク&スウェード・ハンセンの名タッグチーム、マサ斎藤、馬場、ロン・フラー、キンジ渋谷、テリー・ファンク、ロス・メディコ2号&3号、シーク、そしてミル・マスカラスの22人。
この異例ともいえる撮影が行われたのには、何か特別な背景があったのだろうか。
プロレスライターの流智美さんは「NWAとAWAの〝史上初〟のロサンゼルスで興行合戦が繰り広げられていたからです」と明かす。
AWAはNWAの太平洋沿岸の拠点を狙い、9月6日にロサンゼルスのフォーラムで興行を打った。メインイベントはバーン・ガニアがディック・ザ・ブルーザーを挑戦者に迎えたAWA世界ヘビー級選手権。ルー・テーズ vs ラリー・ヘニング、マッドドッグ&ブッチャーのバション兄弟 vs ビル・ワット&ウィルバー・スナイダー組と豪華カードがラインアップされた。
前日5日にドリー・ファンク・ジュニア vs バディ・オースチンのNWA世界ヘビー級選手権を含む4大選手権を開催したNWAは超満員1万2000人を動員。
芳本特派員は当時「1万人以上のファンが入場できずにあふれた。売り上げの方もざっと4万ドル(当時のレートで1440万円)というすさまじさ。会場を取り巻く道路は完全にマヒ状態となり、フリーウエーまでのわずか2キロを走るのに1時間20分もかかった。12日の5大タイトル戦もすごい人気で、前売り券は全部売り切れた」と興奮気味に伝えてきていた。
「NWAは5日の興行に来た観客に、翌6日のディズニーランドのタダ券を配った。『明日は(AWAの興行に)行かないでください』ってことですよ」(流さん)
その効果があったのか、2万4000人収容のフォーラムには約3000人弱の観客しか集まらず閑古鳥が鳴くありさま。AWAは巻き返しを図り、同じメンバー構成で20日にフォーラムでの第2弾興行を予定。対するNWAは今度は6大選手権で対抗した。
流さんは「(プロモーターの)マイク・ラベールが赤字になってもいいからってお金をかけた。物流攻勢でこれだけのメンバーを集めて、集合写真を撮ることによって『ウチの方がすごいよ』って示したのは間違いない。それを新聞の報道用に撮ったんじゃないですかね。ロス在住のダン・ウェストブルック(後に東スポ通信員)がよく言うんですけど、『(12日は)間違いなくロサンゼルス史上最高のメンバーだ』って。その日ダンは観客として見てます」と解説する。
確かに当時は「ロサンゼルス・タイムズ」紙にプロレスの試合結果が掲載されていた。集合写真はパブリシティー用だったのだろうか。
ところで、後にネットが普及して地元紙の結果が閲覧できるようになると、馬場のシークとの防衛戦の結果が誤りだったことが判明する。東スポは速報で1-1から馬場の反則勝ちと報じたが、実は両者リングアウトの引き分けだった。
流さんは「両者リングアウトよりも、馬場の反則勝ちの方が格好はいいですから。日本テレビもハイライトで、東スポ通りに流したんですよね。後から(プロレス)マニアが『これ違うじゃん』ってわかるんだけどね」と笑う。東スポが日本プロレスへ忖度したのだろうか。
とはいっても、馬場のインター海外初防衛戦は、AWAの侵攻を迎撃する一翼を担ったのは間違いない(敬称略)【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













