不世出のスーパースター、アントニオ猪木さん(享年79)が死去して、10月1日で1年となる。数々の偉大な功績を残したプロレスラー人生の中で、今でも最大の「謎」とされるのが1971年12月に起こった「日本プロレス除名事件」だ。猪木さんが日プロの乗っ取りを企てたとされるが、果たして本当なのか。当時、猪木さん、ジャイアント馬場とともに選手の立場で団体取締役を務め、騒動を目の当たりにした現大日本プロレス会長のグレート小鹿(81)が〝真相〟を明かす――。

日本プロレス界の「生き証人」グレート小鹿
日本プロレス界の「生き証人」グレート小鹿

 1971年11月のことだ。場所は東京・新宿のスナック「九州」。この日は地方のプロモーターや関係者を招いて開催するゴルフコンペの前夜で、小鹿は日本プロレス社長の芳の里、吉村道明と酒をくみ交わしていた。

 宴の最中、店に1本の電話が入った。声の主は上田馬之助。「明日、大変なことになります」。電話越しにも逼迫した状況が伝わり、スナックに直接来ることになった。

 店に到着した上田は血相を変えて「猪木さんと(ビジネスパートナーの)木村(昭政)さんが話をして、みんながゴルフコンペに行った時に役員会をやって、会社を乗っ取っちゃうという話です」と伝えた。

 寝耳に水だった芳の里が「それは馬場も知っているのか?」と聞くと、上田は「知ってると思います…」。すぐに馬場も呼ばれ、元子夫人が運転する車でやって来た。

「上田が全部言ったよ。明日、何かあるらしいな。お前も賛成してるのか?」

「話は知っていますけど、僕はそういうのはやろうと思っていません」

「何で俺に言わないんだ?」

「すいません…」

 芳の里と馬場の間で、そんな会話が繰り広げられたのを小鹿は覚えている。これが世に言う「上田馬之助密告事件」だ。晩年に上田は計画が別の幹部に筒抜けで、それを伝えたのは馬場だったと主張したが、真相はヤブのまま。とにかく猪木さんのクーデター計画が明らかになったのは事実だった。

猪木の除名処分を発表する芳の里(中)。右は大木金太郎(1971年12月13日)
猪木の除名処分を発表する芳の里(中)。右は大木金太郎(1971年12月13日)

 ただし、小鹿は猪木さんの〝真意〟を知っていた。前年5月、米国遠征中だった小鹿は、休暇でロサンゼルスを訪れた猪木さんと日本料理店で再会。猪木さんの言葉は次第に熱を帯びていった。

「日本プロレスは大の男が20人も25人もいて、あれだけお客さんが入っているのにビル一つ造れない。女数人で西野バレエ団は青山にビルを造っているんだぞ。日本に帰ったら改革しなきゃいけない。俺たちがやらなきゃ誰がやるんだ!」

 当時の日プロはスタッフらが高級取りで、1万円札が入った給料袋が立つほど。一部幹部が、当時は珍しかったドイツ製高級車で通勤しているのを目撃したこともあった。小鹿は「僕も応援します」と賛同。午後6時にスタートした2人だけの宴が終わったのは、翌日の午前4時だった。

 話は再び71年12月に戻る。上田の報告によりゴルフコンペは中止。代わりに臨時役員会が開催された。開始前、小鹿は芳の里からこっそり守衛室に呼ばれ、猪木さんが謝罪したと伝えられた。「『あんまりモメないでやってくれよ』と芳の里さんから言われたから、俺は猪木さんを責めることはしなかった。これでチャンチャンにしたんだ」

 だが、12月に入り事態は急転。13日に日プロが猪木さんが会社乗っ取りを計画したことなどを理由に除名すると発表。会見後には乾杯も行われた。ただし写真を見ると、小鹿が複雑な表情をしているのが読み取れる。

「不思議なんですよ。誰が段取りして除名の話になったのか。『除名を乾杯する』ってビールが出てきて、何で?だよ。もしかしたら、(猪木さんが)東京プロレスから日本プロレスに復帰するときに汗をかいた人が、『あれだけ骨折って戻してやったのに!』という怒りに燃え上がり、除名に走ったのかな」

「猪木除名」で乾杯する日プロのレスラーたち。前列右の小鹿は複雑な表情…
「猪木除名」で乾杯する日プロのレスラーたち。前列右の小鹿は複雑な表情…

 翌日には猪木さんと木村氏も会見し、乗っ取りを全面否定。「こっちからも絶縁です」と日プロとの決別を宣言した。

 果たして、本当に猪木さんは乗っ取りを企てたのか? 小鹿は「『こんなのどうですか?』と言われ『そんなのやれるのか』と軽い気持ちで乗ったと思う。裏で絵を描いたヤツがいるんですよ。猪木さんにそんなアイデアはない。俺に言ったように、会社のシステムを変えようとしていたけど、乗っ取って自分らがやろうというアレじゃない」という。

 また、馬場については「猪木さんたちと何回も話していたと思うよ。ただ、最終的に一緒にやろうという気はない。多分ゴチャゴチャしているから、一歩引いて二歩後退して終わったと思う。猪木さんは途中でやめない人。乗った船は最後まで乗るから」と証言した。

 1か月後の72年1月、猪木さんは新日本プロレスを設立。皮肉なことに、その後馬場も抜けた日プロは73年に崩壊した。

「今考えると悔しいな。俺と猪木さんがロスで約束したことが実現していたら、今ごろレスラーがもっとハッピーに過ごせた可能性が十分にあったから」。そう語った小鹿は、静かに故人へ思いをはせた。(敬称略)