【平成球界裏面史 近鉄編124】平成16年(04年)、香月良太は自由獲得枠で近鉄に入団し新人王候補と期待されていた。ただ、社会人時代からの右肩痛の影響があり一軍で登板できる状況ではなかった。それでも、近鉄は能力を買っており、自由枠での強行指名に踏み切った。
実際、社会人2年目だったに平成14年(02年)には好調でNPBから8球団が1位指名を申し出たほどだった。だが、右肩の状態が悪化した後には各球団がトーンダウン。下位指名ならと引いていったところで、近鉄だけは自由枠の1位での獲得に名乗り出た。
香月はその熱意に応える形で近鉄を選んだ。ただ、実際に右肩の状態は簡単には回復しなかった。右肩の関節唇損傷だったが手術は行わず、肩を休めて自然治癒させる方法を選択した。治療に専念すると割り切っていたものの、グラウンドでは日々、選手たちが熱い戦いを繰り広げる。そして6月13日には信じられないニュースが入ってきた。
オリックスと近鉄が合併するというニュースが世間を駆け巡った。無論、香月の立場ではどうしていいかも分かるはずがない。近鉄から自由獲得枠で獲得されたはいいものの、肝心な球団が消滅してしまってはどうなるのか。野球選手としての将来設計を考えていたならば、それもぶっ飛んでしまう。まして、右肩の故障を承知の上での逆指名入団という特殊事情もある。香月の心が揺れなかったわけはない。
香月は1年目の平成16年(04年)9月23日、オリックス・ブルーウェーブ戦(大阪ドーム)で7回から3番手で救援登板し2回4失点。これがシーズン唯一の登板となるプロ初登板となった。その翌日、9月24日は近鉄バファローズとして最後となる本拠地・大阪ドームでのホームゲームとなった。
プロ初登板ともなれば、失点したとはいえそれなりのニュースになってもおかしくはない。だが、その頃の近鉄はそれどころではないという状況だった。9月24日のオリックス戦はサヨナラ勝利という結果になり、ナインとスタッフ全員が真っ赤に染まった右翼席をバックに記念撮影を行った。そこに1年目の香月も参加していた。
正直、香月からすれば近鉄の一員として球団最後のシーズンを全うしたという感覚はなかっただろう。入団直後の若手は自動的に合併先であるオリックスの一員となることが決まった。近鉄最後のドラ1が近鉄の歴史で残したスタッツはわずか1試合分。2イニングを投げ打者13人に対し被安打4、3四死球、2奪三振、4失点という乱調だった。
故障を抱えながらも0ではなく1試合でもその歴史に名を刻んだ事実は大きい。平成17年(05年)はオリックスバファローズの一員として仰木彬監督の下でプレーすることになった。故障が完全に癒えない中で、2年目にして2球団という波乱の野球人生。ただ、近鉄時代からの保存療法が功を奏して香月のプロ野球人生が動きを見せることになる。
















