【平成球界裏面史 近鉄編123】平成16年(2004年)でNPBの歴史から姿を消した近鉄バファローズ。その近鉄の最後のドラフト1位の存在を覚えているファンは少なくはないはずだ。その名は香月良太。福岡県久留米市出身で、弟(良仁)も元ロッテのプロ野球選手として活躍した。

柳川高時代からの香月良太(2000年8月)
柳川高時代からの香月良太(2000年8月)

 地元では小学1年から投手として野球を始め、ボーイズリーグの久留米明球クラブではエースで4番として活躍した。その後は福岡の名門・柳川高に進学。3年時の平成12年(00年)にはエースとして春のセンバツ、夏の甲子園に春夏連続で出場を果たした。両大会の準々決勝では、のちにヤクルトでプレーする武内晋一が在籍した智弁和歌山高に1点差で惜敗。それでもベスト8にチームをけん引した右腕の評判は全国区となっていた。

 特に夏の智弁和歌山との試合では、右手のマメがつぶれた状態で投球を続行したことが印象的だった。アクシデントに屈せず、延長11回を完投した上でサヨナラ負けという結果に高校野球ファンは感動。その大会では柳川に勝利した智弁和歌山が優勝したとあって、プロのスカウト陣からの評価も高かった。

 平成12年(00年)ドラフトでは指名候補として高卒でのプロ入りが確実視されていた。だが、上位指名でのみのプロ入りの意向を示した影響もあってか、指名漏れ。社会人の東芝に入社する流れとなった。

 ただ、香月には高校からプロ入りという道に関して不安があった。高校時代は豪腕で鳴らしたとはいえ、故障の連続で万全というわけではなかった。香月ほどの実力があれば下級生でもエースを張り甲子園を目指せたはずだが左足じん帯、でん部、右ひじと入学以来、常に故障を抱え続けてきた。

 2年秋の九州大会でも万全ではない中で4試合を投げて2完封。140キロに迫る直球とカーブで32イニング、45奪三振と快投を見せたが、全ての力を解放したわけではなかった。

 冬場は体のメンテナンスをしながら鍛錬に集中。投球練習はセンバツの始まる直前の3月に入ってからという状況だった。肘の不安も考慮し練習のマウンドでは全力投球は封印。取材陣からの質問に「もう大丈夫です」と言いつつ、ベールを脱ぐことはなかった。

胴上げをされる柳川・末次秀樹監督(1995年7月)
胴上げをされる柳川・末次秀樹監督(1995年7月)

 当時の末次監督は「練習ではいつも全力で投げさせないようにしています。試合では見違えるボールを放りますから」と説明していたように、特殊な事情があったことは間違いない。

 高校からのプロ入りがなくなった後、柳川高に講演に訪れた当時ダイエーの王貞治監督は香月に対し「3年後待っているぞ」と話すなど、プロ球界での評価は依然として高かった。香月の同学年ではのちに東京ガスを経て巨人入りする内海哲也(敦賀気比)、三菱ふそう川崎を経てベイスターズ入りする森大輔(七尾工業)と「3羽ガラス」称され、社会人野球の選手となってもスカウトの注目を集め続けた。

のちにベイスターズ入りする森大輔(左)と巨人入りする内海哲也(2000年)
のちにベイスターズ入りする森大輔(左)と巨人入りする内海哲也(2000年)

 高校卒業から3年後の平成15年(03年)ドラフトでは近鉄から自由獲得枠で指名され入団。ルーキーイヤーとなる平成16年(04年)に球団が消滅する未来など、誰も予想しない中でプロとしての第一歩を踏み出した。いわゆる〝逆指名〟でプロ入りし、入団初年度に球団が消滅するという中でのスタートは精神的に大きな重圧となったに違いない。