【平成球界裏面史 近鉄編82】平成13年(2001年)に近鉄・タフィ・ローズは当時のNPBタイ記録となる55号本塁打を放っている。そのシーズンは46本塁打の盟友・中村紀洋と2人で年間101本塁打の大暴れ。まさに近鉄が嵐の中心となり、大混戦のパ・リーグペナントレースを勝ち切った。

不満げな表情を浮かべるローズ(2001年9月)
不満げな表情を浮かべるローズ(2001年9月)

 近鉄、ダイエー、西武の優勝争いが混迷を極めると同時にローズの本塁打記録の行方にも注目が集まった。平成13年(01年)9月12日、シーズン128試合目で54号を放つと、6試合をはさんで24日に西武・松坂大輔から55号を記録。この時点で王貞治氏の数字に並んだ。

 残りは5試合。ローズの本塁打ペースから計算すれば、新規記録樹立の可能性は高いと目されていた。だが、ローズは重圧から足踏みしてしまう。136試合目となった26日のオリックス戦では北川博敏の「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」で劇的にリーグ優勝を決めたものの、ローズはノーアーチ。137試合目となった29日の試合では四死球を1個ずつ記録したが無安打に終わった。

 そして、そこから不運な事に当時、王貞治監督が指揮を執っていたダイエーとの対戦がローズの道を阻んだ。同30日の138試合目は、ダイエー戦(福岡ドーム)。先発・田之上慶三郎は第1、第2打席と連続で敬遠気味の四球で勝負を避けてきた。その後の打席でもストライクゾーンにボールがくることはなかった。

城島の頭をポンポンする若菜コーチ(1999年9月)
城島の頭をポンポンする若菜コーチ(1999年9月)

 ローズが打席で見送った全18球でストライクは2球のみ。無理に打って出て凡退する場面もあり、球場は異様な雰囲気に包まれた。試合前に王監督からは「60本打つんだぞ」と激励を受けた。それは本心だったはずだ。だが、王監督の周囲はそんな心境ではなかった。

 当時のダイエー・若菜嘉晴バッテリーコーチはこんな発言も残している。「ウチが打たれるわけにはいかんだろ。王さんは日本球界の象徴だ。記録に残らないといけない。外国人は、いずれ自分の国に帰る」。このコメントは当時、物議を醸した。

 ワイドショーなどでは「人種差別」との見解を示す人物も現れた。NPBのシーズン本塁打記録を巡って騒動がぼっ発した。これを受け、当時の川島廣守コミッショナーから「新記録のチャンスを故意に奪うことはフェアプレー精神に外れる」との通達がなされた。これでボール攻めは収まったのだが、ローズ自身は最後の残り2試合でも本塁打を打てず、新記録は幻となった。

苦言をていした川島廣守コミッショナー
苦言をていした川島廣守コミッショナー

 当時のローズは「記録を守りたいなら、それでいい」とうつむいた。中村紀洋は「これやから日本の野球はあかんねん」と不快感を示した。これも今となっては歴史の1ページではあるが、王貞治氏の数字を守るべきという空気は、当時のプロ野球ファンの間に存在していたことは事実に思える。

 近鉄から話題はそれるが翌平成14年(02年)、今度は同じ助っ人であり親友の西武・アレックス・カブレラが56本塁打のカベに挑むことになる。カブレラが55号を打ったのは、くしくもローズと同じ135試合目。そして、同じようにカブレラも王監督率いるダイエーと対戦し、執拗(しつよう)なボール攻めを経験した。

カブレラ(右)を激励する王監督(2001年7月)
カブレラ(右)を激励する王監督(2001年7月)

 5打席で3四死球の結果にカブレラは「プロがやる事じゃない」と心を大いに乱した。残り4試合はダイエーとの対戦ではなかったが、ローズと同じく55本のタイ記録から数字を動かすことができなかった。

 球史に残るエピソードの中にこうして近鉄の猛牛戦士たちの名前が現在でも語られる事実。助っ人の枠を超え、NPB記録と戦ったナニワのスーパースラッガー・ローズの存在が忘れられることはないだろう。