【平成球界裏面史 近鉄編⑳】平成19年(2007年)、中村紀洋は所属チームなしからスタートした。前年所属のオリックスとの契約更改交渉は難航し、1月中旬になって自由契約。2月1日は大阪・堺で一人ぼっちのキャンプインとなった。

中村紀をベンチで迎える落合監督(2007年3月)
中村紀をベンチで迎える落合監督(2007年3月)

 そんな状態から2月半ばに中日にテスト入団し育成選手として契約。オープン戦では順調に結果を残し支配下登録された。3月30日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)では開幕スタメンを勝ち取った。

 1点ビハインドの8回、二死二塁の場面では木田優夫から右中間へ同点適時二塁打。その後、場面は二死一、二塁と変わり代打・立浪和義が決勝打となる中前適時打を放った。

 お立ち台には中村と立浪のコンビが並んでいた。立浪はファンに向け「日本一になって泣きましょう!」と呼びかけた。そこから約半年後にそれが現実となるとは、事実とはまさに小説より奇なりだ。

交流戦で再会したローズ(左)と中村紀(2007年6月)
交流戦で再会したローズ(左)と中村紀(2007年6月)

 シーズン中の中村のコンディションは万全ではなかった。やはり、キャンプにフル参戦していないブランクは隠せなかった。序盤戦から持病の腰痛が悪化。さらに、右太ももの肉離れも発症する深刻な状況が続いた。それでも「痛いかゆいを言ってられる立場と違うからな」と鎮痛剤をうちながら強行出場を続けた。

 結果、130試合に出場し打率2割9分3厘、20本塁打、79打点の成績を残した。チームはシーズンは2位ながら、CSファイナルで巨人を打ち砕き日本シリーズに進出。同シリーズでは5戦で打率4割4分4厘(18打数8安打)、4打点と53年ぶりの日本一に貢献しMVPに輝いた。

お立ち台で号泣する中村紀洋(2007年11月)
お立ち台で号泣する中村紀洋(2007年11月)

 日本シリーズ直前、遠征先の札幌で筆者とひそかに壮行会を行った。「精いっぱいにプレーして、MVPになれたら、花になれたらええな」。そう話した通り有言実行してみせた。

 05年、ドジャース傘下3Aラスベガスでは気温50度にも迫る灼熱(しゃくねつ)の夏、マイナー生活に耐えプレーを続けた。移動の車中で何度も大声で熱唱したORANGE RANGEの『花』。歌詞に出てくる「だから僕は精いっぱい生きて花になろう」というフレーズ。それをそのまま体現したシーズンだった。

 前年、契約交渉長期化で浪人となる原因を作った1人でもある、オリックス・小泉球団社長(当時)から、日本シリーズ後に電話が入った。MVPを祝福する内容ではあったが、中村はなんとも言えない困惑した表情をみせていたことも印象的だった。

オリックス・小泉隆司球団会長(2007年1月)
オリックス・小泉隆司球団会長(2007年1月)

 11月30日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップとなる年俸5000万円でサイン。「契約してもらえるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」とどん底からの頂点に満面の笑みをみせた。

レフトへサヨナラ2ランの中日・中村紀洋(2007年9月)
レフトへサヨナラ2ランの中日・中村紀洋(2007年9月)

 久々に平穏なオフ。08年も中日の一員としてプレーができる。名古屋では自身が出演するラジオCMも放送されるなど順風満帆だった。同年6月17日の西武戦では通算サヨナラ本塁打記録を9本とし王貞治、若松勉両氏を抜き歴代3位に浮上。140試合に出場し24本塁打と、らしさを取り戻した。若手時代から手本にしてきた落合監督のもとで手堅い中日野球を吸収。「中日に骨を埋めてもいい」と考えもしたが、現実はそうはならなかった。