【平成球界裏面史 近鉄編⑮】平成17年(2005年)、関西では岡田阪神の初優勝が大いに話題となっていた。阪神と中日がしのぎを削るころ、遠い米国3Aで中村紀洋が汗を流していた。
マイナー契約でドジャースとサインしたため、メジャー40人枠のロースターに空きが出ない限り昇格の望みなし。
日中の気温が50度に迫る灼熱の中、3A・ラスベガスでフルスイングを続けるには、相当な根性が必要だった。
当時、右ヒザの故障から復帰、調整のためMLBでサイクル安打も経験したことのあるホセ・バレンティンがチームに合流したことがあった。
当時で34歳。ロッカールームで右ヒザに装具を付けながらプレーする姿には、限界すら感じさせるものがあった。ただ、マイナーの試合では復帰即、本塁打を放つなどすぐにメジャーに昇格していった。
8月に入り中村にはメジャー昇格のチャンスも残っていなかった。同じポジションで、コンディションも万全ではないバレンティンを黙って見送るのはつらかったはずだ。
ただそのころ、NPB関係者が中村をたずねてラスベガスを訪れてきたこともあった。それは合併球団のオリックスバファローズ・小泉隆司球団社長だった。要件はもちろん来季からの日本球界復帰要請だった。
近鉄でドラフトされたときの監督でもある故仰木彬監督からも電話で誘いを受けた。「あの電話での一言が胸に刺さった」と日本球界復帰へ心が大きく傾いた。
このころ、筆者も現地ラスベガスを訪れた。久々に日本語で語り合い移動の車中では当時、流行していたORANGE RANGEの「花」を大合唱した。
歌詞の中にある「だから僕は精一杯生きて花になろう」というフレーズ。この時点ではアメリカで一花咲かせるため残るのか、日本に復帰してもう一花咲かせるのか、本人の心の中までは読めなかった。
だが、この後の未来を知る野球ファンは06年からオリックスでプレーすることを知っている。
わずか17試合、41打席ではあるがメジャーの舞台を経験した。5安打3打点で終わったが、チームメートは「日本での実績も踏まえた上で、しっかりリスペクトのある態度で接してくれた」という。
マイナーでは、荒削りながら才能あふれる原石たちと触れ合うことで、違った側面から野球を見る目を養った。これは後に高校生やNPBの指導者として引き出しを増やすことにつながっている。
05年オフには近鉄の先輩でもあり、日本人大リーガーの先駆者・野茂英雄氏と食事する機会もあった。その席で、日本での実績がありながら過酷な環境での1シーズンを戦い抜いたことをねぎらわれ「マイナーだったけど、アメリカで野球をやれてよかったなと思えた」と気持ちが吹っ切れた。
かくして中村は1シーズンの米国武者修行を終え、オリックスバファローズの一員となる道を選んだ。

















