【平成球界裏面史 近鉄編120】平成14年(2002年)ドラフトで近鉄から7位指名された大西宏明外野手。指名順位は下位ではあるが、二軍首脳陣からの評価は決して低くはなかった。「実戦向き」。そういう表現が多かった。実際、大学通算2割7分台だった打率だが、プロ1年目の平成15年(03年)はイースタン・リーグで3割台の打率を残し、1年目から一軍の公式戦も経験した。
迎えた平成16年(04年)、宮﨑県・日向で行われた春季キャンプのスタートは二軍投手だった。とはいえ、当時の近鉄キャンプが行われていたお倉ヶ浜と大王谷は至近距離。故障や不調に起因する一、二軍の入れ替えも簡単に行えるため場所の問題はなかった。
そんな中、大西はキャンプ半ばでチャンスをモノにする。一軍組のお倉ヶ浜で紅白戦が行われていた時だ。大西は試合に呼ばれると当時のライバルを横目に3安打を集中し結果を残した。当時の梨田昌孝監督は「いや、まだまだ。結果は素晴らしいけど、ルックスが個性的だからスター性が…」とジョークを飛ばしながら、翌日には大西を一軍メンバーに昇格させた。
そこからキャンプ、オープン戦を経て大西は一軍に残り続けた。平成16年(04年)開幕は一軍メンバーとしてチームに帯同。同じ右の外野手である先輩・下山真二の不振もあって、大西は左腕キラーとして起用されるようになった。
4月2日のオリックス戦では1番・左翼で先発出場し具臺晟からプロ初本塁打となる初回先頭打者本塁打を放った。この年から加入した新助っ人・ラリー・バーンズが同じ日に来日初本塁打となる満塁本塁打を記録しており、先頭打者本塁打と満塁本塁打で初本塁打を記録した選手が同一シーズンにそろったことが史上2例目となっている。すなわち、その現象は近鉄の歴史としては最後ということになる。
5月17日に二軍投手打撃コーチだった鈴木貴久氏が急逝。当時の梨田監督は翌日からの2試合で、鈴木氏のまな弟子だった大西を1番・中堅のレギュラーだった大村直之に代えて起用した。オリックスと近鉄の合併に端を発するプロ野球再編問題が報じられた6月13日の日本ハム戦では、横山道哉からプロ初のサヨナラ犠飛も記録した。2年目にして合併騒動の渦中でのプレーという特殊な経験をしつつ、大西はプロ野球選手として大きく成長を遂げた。
二軍降格も経験しつつ、このシーズンの大西は一軍で結果を残し103試合に出場。主に7番・左翼で起用され、ポスト・タフィー・ローズと期待されたバーンズの不振など、計算外の戦力ダウンをカバーした。
このシーズン、新人王と最優秀救援投手を獲得したソフトバンク・三瀬幸司を得意とし、3本塁打を記録するなど左腕に対し相性の良さを発揮。左キラーの大西という地位を一気に手中に収めた。それなのに…。チームはこのシーズンを限りに消滅という憂き目を見た。まだ入団2年目だった大西にとっては無我夢中にプレーするしかなかったはずだが、心中は複雑なものがあったに違いない。















