【プロレス蔵出し写真館】〝超人〟が亡くなった。7月24日、ハルク・ホーガンが71歳で逝った。
昨年の7月18日、米大統領選挙の共和党全国大会で、トランプ支持者として応援演説に登壇し、タンクトップを引き裂く、現役時代さながらのパフォーマンスを披露して元気な姿を見せていただけに大変、驚いた。
ホーガンは1980年(昭和55年)5月に新日本プロレスに初来日を果たし、来日を重ねるごとに爆発的ではないが徐々に人気が増していった。同年の最終シリーズ「第1回MS・Gタッグリーグ戦」に〝不沈艦〟スタン・ハンセンと組んで出場し、決勝戦に進出した。12月10日、大阪でアントニオ猪木&ボブ・バックランド組と優勝を争い、猪木の逆さ押さえ込みでフォールを奪われ準優勝に終わったが、ハンセンと息の合ったチームワークを見せていた。
さて、そんな2人がシングルマッチで初対戦したのは翌81年5月10日の後楽園ホール大会だ。
ビッグカードにもかかわらずノーTVだった。試合は開始早々、ハンセンがロープに走ると、ホーガンも応じてロープワークからタックル合戦。その後パンチ、エルボー、ヒザ蹴りの応酬を繰り広げ、ハンセンがスリーパーで捕獲する。
ホーガンはハンセンをボディースラムで投げ、エルボードロップ。かわしたハンセンがドロップキック。場外に吹っ飛んだホーガンを追うハンセン。走り込んでラリアートに行くが、かわされて場外フェンスの外に飛び出した。
先にリングに上がったのはホーガン。エプロンに立ったハンセンをロープ越しのブレーンバスター。その後、スリーパーから執拗なヘッドロック。テキサスブルドーザーでグイグイ締め上げる。ド迫力の攻防に、両者に絶え間なく声援が飛ぶ。
反撃に転じたハンセンはバックドロップで投げ、ロープに飛んでボディープレスを放つ。ヒザを突き立てるホーガン。ジャンピングニーでハンセンをダウンさせてギロチンドロップ。これをかわしたハンセンがエルボードロップ。今度はホーガンがかわす。一進一退の攻防が続く。
そして再び場外へ戦場を移してパンチ、エルボーの応酬。イスを手にしたホーガンがフルスイングで殴りつけると、ハンセンにかわされ鉄柱を叩いてしまう。そして振り向いたホーガンにハンセンの高速〝不意打ち〟ウエスタンラリアートが炸裂した(写真)。至近距離から強烈な一撃を食らい、ホーガンは場外に沈んだ。
注目の大一番は9分35秒、リングアウトで決着した。試合後、悔しさをあらわにしたホーガンだったが、最後はガッチリ握手を交わして抱き合った。
このフィニッシュに至る流れは、記者席では確認できなかったようで、当時の東スポ紙面の試合経過にラリアートの記述はない。観客の中にもホーガンがなぜダウンしたのか、理解できなかった人もいたのではないだろうか。
筆者は写真部員として東スポに入社して、この日はまだ試用期間中だった。先輩カメラマンとチームでこの試合を取材したのだが、このラリアートが撮れて紙面に使ってもらったことで、この先〝やっていけそう〟という手応えを感じた、個人的に非常に思い出深い試合だ。
ホーガンは翌82年に映画「ロッキー3」に出演して人気はさらに上昇し、84年1月23日には米ニューヨークMS・Gでアイアン・シークを破りWWF(現WWE)世界ヘビー級王者となった。すぐさま新日プロの新春シリーズに、ベルトを持参して参戦した。
2月5日、北海道・苫小牧から青森へ向けてフェリー移動となった日、船内でくつろぐ外国人レスラー一行の姿があった。ホーガンを中心にアイアン・マイク・シャープ、バッドニュース・アレン、ベビー・フェース、ラッシャー木村、デイビーボーイ・スミス、素顔のブラック・タイガー。
ホーガンから「東京スポーツ、ピクチャー」と声が飛んだ。カメラを向けるとリラックス状態で、人さし指を立てポーズを取った。
翌6日の八戸でWWFのベルト姿の写真を依頼すると、快く次々とポーズを取った。唯一、断られたポーズが〝ベルトにキスする〟ポーズ。即座に「ノー」の声を発した。
レフェリーのミスター高橋に「冗談じゃねぇ」とでも言ってるようだ(※そういうニュアンスに聞こえた)。ホーガンの美意識の問題なのだろうか…。
とはいっても、気さくに取材対応してくれたレスラー、ホーガンの印象はよかった。謹んで哀悼の意を表します(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














