【プロレス蔵出し写真館】今から35年前の1989年(平成元年)7月24日は、プロレス界で画期的な出来事があった日だ。初のプロレスラー国会議員が誕生した。
〝燃える闘魂〟アントニオ猪木が参議院比例代表選挙で初当選したのだ。
猪木の参院選出馬は東スポがスクープした。6月7日発行の1面で報じると、プロレス界は騒然となった。 ソ連(当時)から10日に帰国した猪木は正式に出馬を表明。20日の「スポーツ平和党」結党式には坂口征二、長州力、藤波辰巳(現・辰爾)以下、全レスラーが結集して乾杯した。意外な応援者はビッグバン・ベイダーで、「リング上で敵同士で戦ってきたが、私はミスター・イノキを尊敬している」と猪木とガッチリ握手を交わして激励した。
スローガンは「北方領土返還」で、キャッチフレーズは「国会に卍固め」と「消費税に延髄斬り」。
この年の比例区は、1人当選させるためのボーダーラインが、60万票前後といわれた。猪木サイドの票読みは強気の200万票以上で名簿上位3人当選と予測していた。
ところが、23日の投票日を迎えると即日開票分では「当確」とならず、24日まで国民の審判を仰ぐこととなる。
24日午後1時過ぎの発表では、82%から84%と開票が進んだが4000票あまり増えただけで、票の伸びが鈍っていた。2時過ぎの発表で盛り返して勢いが戻ったが、事務所を暗いムードが支配した。
新日軍団は前日から泊まり込んでいて、疲れがピークに達していた。そんな中、午後5時9分、ついに「当確」の報が届いた。事務所には歓喜の叫びが響いた。
スポーツ平和党は99万3989票を獲得し、名簿1位の猪木は比例区定員ギリギリの50番目(最終順位は48位)で滑り込み当選を果たしたのだった。
猪木は報道陣の前で涙をぬぐった。
プロレス界から参院選へ初出馬したのは、77年(昭和52年)の国際プロレスの名物レフェリー、阿部修。「国会のレフェリー役として行動する」をキャッチフレーズに7月10日投開票の参院選全国区に出馬した。6月17日の公示日前日、全日プロを訪れ馬場社長に出馬報告した。とはいえ泡沫候補のそしりは免れず、結果は落選だった。
ところで、党公認の新人候補から一転して〝はしご〟を外されたのは前田日明氏だった。
前田氏は2009年(平成21年)12月、翌年の参院選比例代表に民主党公認で出馬すると報じられた。民主党は07年の参院選で勝利し、09年の衆院選でも大勝して政権を獲得。前田氏は衆院選で民主党候補の応援演説を行うなど、同党と関係を深めていた。
ところが、翌10年3月3日、小沢一郎幹事長が発表した夏の参院選の新人候補の中に前田氏の名前はなかった。理由を聞かれた小沢氏は「前田なにがしについては本人の認識のことやら何やらあったので、今回は見送り」と、まさかの〝なにがし〟扱い。後に前田氏は、けんか別れしたことを明かしていたが…。
前田氏は「小沢なんてどんな言い訳してもクズですよ!あんなもん」と一刀両断にする。
「オレはOUTSIDER(のプロデューサー)やっていて協賛企業が10社ぐらいあった。(小沢氏と)ケンカしてやめた後に、10社全社に同時に国税が入りました。同時にですよ。あり得ないでしょ(※10社すべて撤退したという)。思い出すたびにホント、ムカつくよ」。小沢氏がそうさせたと前田氏は憤慨する。
小沢氏を怒らせた原因は何だったのだろう…。
「民主党が推進している『(在住外国人の)地方参政権』をどう思いますか? って聞かれて『オレは反対です』って言った。みんなとは違う言い分でね。在日って言ってもいろいろいるんですよ(前田は在日韓国人三世として生まれ、24歳のとき日本に帰化)。小沢はなんにも理解せず、ただ『前田は勝手に党議拘束に逆らったことを勝手に言ってる』ってブチ切れて、『選挙出るんなら1億5千万だか3億持って来い』って。オレと小沢さんの間に入ってる松木謙公さん(衆院議員)とかが、矢面に立って仲裁に入ったけど、小沢はなにを言っても聞く耳持たずで。オレは松木さんに迷惑かけても申し訳ないからやめた」と前田氏は経緯を明かした。
さて、20日に投開票の参院選には、元GAEA JAPANの広田さくらが愛知選挙区から出馬している。立候補に伴い、所属するプロレスリングWAVEを退社した。果たして当落はいかに…(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













